朝ドラ『あんぱん』ネタバレあらすじ 第25週タイトル「ばいきんまん誕生」
(121~125話)放送日は2025年9月15日(月)〜2025年9月19日(金)
目次
第25週「ばいきんまん誕生」
真新しい絵本が、そっと書店の一角に並んだ。その名は『あんぱんまん』。タカシが描いた、丸くふっくらとした顔のヒーローが表紙を飾っている。のぶがずっと「このキャラクターは絵本にすべきや」と熱心にタカシを説き続けた、念願の作品だった。
しかし、世間の反応は冷たかった。当時の主流だった詩的な絵本とは違い、物語が中心の『あんぱんまん』は、大人たちからなかなか理解されなかったのだ。「顔をちぎって食べさせるなんて、気持ち悪い」と酷評する声も耳にした。書店からの注文はまばらで、ほとんど売れ行きが伸びない。
のぶとタカシの小さな部屋。タカシは新しい漫画のネームを描きながら、ため息を漏らした。
タカシ:
「のぶ、本当にこれでよかったのかな…。せっかく出したのに、全然売れてないみたいだ。」
のぶは、テーブルに置かれた『あんぱんまん』の絵本をそっと抱きしめた。
のぶ: 「何言うとんの、タカシさん。売れる売れないは二の次や。この子たちの心に届いたら、それが一番大事なんやき。」
彼女の言葉は、タカシの心をほんの少し軽くしてくれた。のぶは、どんなに評判が悪くても、近所の幼稚園や児童館を回っては、子供たちに読み聞かせを続けた。子供たちがキラキラと目を輝かせ、お腹が空いた子に顔を差し出すアンパンマンに夢中になるのを見るたびに、のぶは心の中で確信するのだった。この子は、きっといつか、たくさんの人から愛される存在になるのだと。
雑誌『詩とメルヘン』の編集長として
その頃、タカシは別の場所で多忙な日々を送っていた。
長年の盟友、八木信夫が社長を務める出版社の雑誌『詩とメルヘン』。タカシはその編集長に就任した。創刊号から、タカシは自分の感性を信じて、個性豊かなイラストレーターや作家たちに声をかけ、従来の常識を覆すような、独創的で美しい誌面を作り上げた。
刊行された雑誌は、詩と絵を愛する人々の間で評判を呼び、売れ行きは好調だった。タカシは編集長として多忙を極め、いつしか『あんぱんまん』の不振を考える時間も少なくなっていた。
ある日、のぶとタカシは、作曲家のいせたくやと久しぶりに会うことになった。カフェでコーヒーを飲みながら、他愛もない話をしていると、ふとのぶが熱を込めて語り始めた。
のぶ: 「たくやさん、タカシさんの『あんぱんまん』、読んでくれたろうか?あれを、舞台にしたいんや。みんなが一緒になって歌えるような、ミュージカルに…!」
のぶは、子供たちに読み聞かせをしながら感じた、この物語の持つ可能性を熱く語った。弱くても、誰かを助けたいという優しい心。自分を犠牲にしても、相手の笑顔を見たいという愛。その言葉を聞くうちに、たくやの瞳が輝き始める。
引用:いせたくや: 「柳井さん、いいじゃないか!最高だよ!やろう、ミュージカルにしよう!」
彼の勢いに押されるように、タカシも微笑んだ。のぶの想いが、また一つの奇跡を生み出そうとしていた。
舞台の成功、そして欠けていたピース
こうして、ミュージカル『怪傑アンパンマン』は、いせたくやが所有する六本木の小さな劇場で幕を開けた。
舞台は想像をはるかに超える大成功を収めた。子供たちはアンパンマンが顔をちぎって分け与えるたびに、「わー!」と大きな歓声を上げ、その純粋な反応は、タカシの心に深く響いた。
だが、舞台が終わった後、タカシは一人、楽屋で考え込んでいた。喝采と熱狂に包まれながらも、心の中には満たされない空洞がある。
タカシの心の声: (…何か、物足りないな。)
物語の構造として、何かが足りない。平和な世界にパンを配るだけのヒーローでは、ドラマが生まれないのだ。観客の心を揺さぶり、物語を前に進めるために必要なのは、善と対立する存在、つまり「悪役」だということに、タカシは気づいた。
「よし…。」
タカシは鉛筆を手に取り、スケッチブックを開いた。
引用:タカシ: 「敵は人間じゃない方がいいな。アンパンは食品だから、敵は雑菌(バイキン)でも目に見えない。じゃあハエみたいな外見にしようか。グロテスクじゃなくて、ちょっと愛嬌がある方がいいかな。」
彼は頭の中で、新たなキャラクターを思い描いていた。悪役でありながらもどこか憎めない、ユーモラスなキャラクター。子供たちが笑ってくれるような、特別な決め台詞も必要だ。
「はひふへほ…」
タカシは何度もつぶやき、ようやくたどり着いたその言葉が、後の国民的キャラクター、ばいきんまんの誕生を告げる最初の産声となるのだった。
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漫画の神様からの電話:アニメーションへの挑戦
1967年10月のある日、タカシのもとに手嶌治虫から突然の電話がかかってきました。タカシにとって、10歳年下ながらもすでに「漫画界の神様」と称される手嶌は、まさに雲の上の存在。アニメーション制作に一度も関わったことのない自分に、なぜ声がかかったのか…。不安と戸惑いを抱えながらも、彼はこの大きな依頼を引き受けることにします。手嶌治虫:
「今度、日本ヘラルドと組んで長編アニメ映画を作ることになりました。美術監督は柳井さんがいいということになりましたので、よろしくお願いします。」
練馬区富士見台にある虫プロダクションは、古い木造アパートを改装した建物でした。一歩足を踏み入れると、そこには大勢の若いアニメーターたちが、活気に満ちて忙しそうに働いています。タカシが任されたのは、大人向けのアニメ映画『千夜一夜物語』のキャラクターデザインでした。最初は「イメージボード」という言葉すら知らなかったタカシですが、物語のシナリオを読み込むうちに、登場人物がまるで目の前で動き出すかのようにどんどんリアルになっていくのを感じました。「どんな顔つきで、どんな体つきで、どんな服を着ているのか…」映画好きのタカシは、俳優をキャスティングするような楽しさを見出していきました。しかし、終盤になると現場は猛烈な忙しさになり、徹夜が続く日々でした。原案や脚本、総指揮まで手掛ける手嶌は、いつ寝ているのか分からないほど働き続けています。描くスピードも信じられないほど速く、タカシはただただ圧倒されていました。無数の女性が登場するシーンで、タカシはキャラクターを描き分けることができず、筆が止まってしまいます。すると、手嶌がそのシーンを一人で引き受け、すべてのキャラクターを描き上げてくれたのでした。タカシは、この「神様」の妥協を許さない完璧主義な姿勢に、ただただ感服するばかりでした。
心を込めた物語:『やさしいライオン』の誕生
1969年に公開されたアニメ映画『千夜一夜物語』は大ヒットを記録。手嶌治虫は、タカシの貢献に心から感謝しました。手嶌治虫:
「柳井さん、本当にありがとうございました。あなたに頼んでよかった。」
手嶌はタカシを食事に招待し、そこで一つの提案をします。手嶌治虫:
「お礼と言ってはなんですが、短編アニメーションを作りませんか?好きなものを自由に作ってください。」
この申し出を受け、タカシは以前ラジオドラマとして発表した『やさしいライオン』のアニメ化を決意します。実はこの短編アニメの制作は、虫プロの会議では赤字を理由に否決されていたのですが、手嶌が個人的に費用を負担してくれていたのでした。『やさしいライオン』の主人公である、母犬に育てられた子ライオン「ブルブル」は、幼少期のタカシ自身を映し出す存在でした。物語の結末は子ども向けとしては衝撃的なものでしたが、人々に深い感動を与え、毎日映画コンクールで大藤信郎賞を受賞するなど、高い評価を得ました。
『アンパンマン』の信念:弱さの中に宿る本当のヒーロー
やがて、『やさしいライオン』が絵本として出版されたことで、フレーベル館の編集者から「もう一冊、絵本を書いていただけませんか」と依頼が舞い込みます。こうして1973年、54歳になっていたタカシは、お腹を空かせた人に自分の顔をちぎって分け与える、弱くて優しい主人公の物語を『あんぱんまん』という絵本にしました。しかし、大人たちには全く受け入れられず、酷評されてしまいます。それでもタカシの信念は揺るぎませんでした。彼がアンパンマンをあえて弱いヒーローにしたのは、「弱いものが勇気を出した時こそ、本当のヒーローになれる」という思いがあったからです。アンパンマンは簡単にパワーを失い、新しい顔を作ってもらうためにジャムおじさんという他者の力を必要とします。彼は弱い人を助ける存在であると同時に、助けられる弱い存在でもあったのです。タカシは、他のヒーローものを見ていてもう一つ気になっていたことがありました。それは、敵と戦うことで町や森がめちゃめちゃになってしまうことでした。「あれを修復するには大変な労力がいるし、時間もかかる。一体誰がそれをやるのだろう」。原爆や空襲で焼け野原になった故郷を目の当たりにしていたタカシは、どうしてもそこが気になっていました。アンパンマンには武器を持たせませんでした。戦争を思い起こさせるからです。「子供たちには戦争がかっこいいものだとは決して思って欲しくない」。アンパンマンには、タカシのそんな思いも込められているのでした。
ミュージカル化とバイキンマンの誕生
そんな中でも、少なくとも一人だけこの物語を面白いと思ってくれた人がいました。タカシが「手のひらを太陽に」の作詞でタッグを組んだ、作曲家のいせたくやです。いせたくや:
「柳井さん、アンパンマンをミュージカルにしようよ。」
こうしてミュージカル『熱血メルヘン解決アンパンマン』は幕を開けます。会場は、いせたくやが稽古場として建てた六本木のビルの地下にある、定員100人ほどの小さな劇場でした。このミュージカルは思いがけないロングランとなり、いせたくやが亡くなるまで16年にも渡って続くこととなります。舞台の袖から見ていてタカシが感激したのは、絵本で非難されたアンパンマンが顔をかじらせる場面が、子供たちに大受けだったことです。タカシは観客の反応を見ているうちに、ストーリーを展開させるには敵役が必要だと気づき、バイキンマンを登場させます。タカシ:
「敵は人間じゃない方がいいな。アンパンは食品だから、敵は雑菌(バイキン)でも目に見えない。じゃあハエみたいな外見にしようか。グロテスクじゃなくて、ちょっと愛嬌がある方がいいかな。」
バイキンマンは絶対的な悪ではなく、アンパンマンと共存する関係性として描かれました。タカシの考えにそぐわず、パンは酵母という菌がないと作れないからです。登場時に必ず「はひふへほ」という決めゼリフを言わせると、これが子供たちに大受けでした。このように、観客の反応に直に接することで、アニメのアンパンマンにつながる発見や工夫がいくつも生まれていきます。
静かに広がる人気:奇跡の始まり
1970年代後半、タカシが近所のカメラ店に行くと、店主が『アンパンマン』が子供に大人気だと話しかけてきました。当時は、ほとんど宣伝をしなかった絵本で、大人たちには酷評されていたはず。戸惑うタカシでしたが、これが奇跡の始まる予兆でした。それからというもの、図書館では「『アンパンマン』がいつも貸し出し中で、なかなか借りられない」という声も聞こえてくるようになります。いつの間にか『アンパンマン』は、幼い子供たちに大人気になっていたのです。字も読めず、言葉もおぼつかない子供たちが、何の先入観もなく純真無垢な心で『アンパンマン』を愛してくれたことに、タカシは心から嬉しく思います。子供たちが何度も読んで本がボロボロになったり、取り合いになったりするので、先生は『アンパンマン』を繰り返し注文してくれます。フレーベル館も人気に気づき始め、タカシが新作を書くと子供たちも先生も大喜びで、『アンパンマン』はシリーズ化されることに。タカシは『詩とメルヘン』の仕事と並行して『アンパンマン』を書き続け、数多くのキャラクターを生み出しました。その数は1768体を超えてギネス世界記録に登録されます。
テレビアニメ化への長い道のり
1980年代に入り、タカシが60代になった頃、『アンパンマン』をテレビアニメ化したいという話が舞い込むようになります。しかし、「顔を食べさせるなんて気持ち悪い」「インパクトがなくて地味」といった理由で、テレビ局の上層部からOKが出ず、なかなか実現には至りません。それでも諦めずに何度も会社に提案し続けてくれていたのが、日本テレビのプロデューサー竹井秀彦でした。竹井秀彦:
「息子の通っている幼稚園で、手垢まみれの『アンパンマン』の絵本を見たんです。」
5歳の息子の幼稚園の三者面談で、竹井は教室の後ろの本棚にあった、表紙の傷んだ『アンパンマン』の絵本に目を止めます。先生に聞くと、子供たちがとにかく大好きで何度も読むのだという答えが返ってきました。竹井は『アンパンマン』が子供たちに絶大な支持を受けていることを確信します。最初の提案から数年経って、竹井は独自のプロジェクトチームを作り、自ら資金を集めることにします。日本テレビの子会社を回って「『アンパンマン』はとてつもない可能性を秘めている。将来必ず利益につながる」と説得して回ったのです。すると制作費が集まり始め、アニメ制作会社のムービー新社も出資を決めます。そして、ついにOKが出ます。ただし、放送は関東の1都3県のみで、時間は「何をやっても2%」と言われるほど視聴率が取れない、月曜の夕方5時でした。それでも竹井は『アンパンマン』の力を信じていました。竹井秀彦:
「自分たちが目を向けてこなかっただけで、『アンパンマン』は子供たちに絶大な支持を受けているんです。この目で見た、あの手垢まみれの絵本が何よりの証拠です。」
そして『それいけ!アンパンマン』と題したアニメの第1回が放送されたのは、1988年10月3日。最初の絵本が出てから15年、タカシは69歳になっていました。
のぶの異変、病気発覚まで
そのアニメ化が始まる前後の1988年(昭和63年)の秋に、のぶは体調を崩していました。胸に異物感と痛みを感じるというのです。タカシ:
「のぶちゃん、すぐ病院で見てもらった方がえいよ!」
のぶは「そうするわ」と答え、タカシもそれほど重大には考えず、忙しさにまかせて病院に付き添うようなことはしませんでした。それから1ヶ月ほどして、まだ痛みが残っていたので、近くの東京女子医科大学病院に行くと、のぶは癌と診断され、即日入院となってしまいます。
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