朝ドラ第109作の『ブギウギ』が10月2日(月)より放送開始されてます。
今回は主人公である花田鈴子を一流の歌手に育て上げる、草彅剛さん役の羽鳥善一のモデルである服部良一について紹介します。
また花田鈴子のモデルとされている笠置シズ子と服部良一の関係、中でも注目な恋愛関係になっていたかについてもみていきましょう。
目次
ブギウギ<花田鈴子と羽鳥善一の役柄>
[花田鈴子]
ヒロインを演じるのは趣里さん。
大阪の下町で銭湯を営む花田梅吉とツヤの長女で、3歳年下の六郎と4人家族。
鈴子は福島の銭湯『はな湯』の看板娘として育つ。
幼いころから歌って踊るのが大好きだった鈴子は、道頓堀の少女歌劇団(USK)入団したことで、歌の才能が開花し歌手への道を歩み始める。
[羽鳥善一]
ヒロインを一流の歌手に育て上げる役を演じるのは草彅剛さん。
大阪生まれの作曲家で、上京してきた花田鈴子の才能にほれ込む。
数々の名曲を生み出しながら、鈴子を一流の歌手にすべく鍛え上げていく。
⇒ブギウギキャスト相関図一覧!結婚相手役の水上恒司は誰?少女歌劇団USK画像付
ブギウギ<モデル服部良一の生涯>
羽鳥善一のモデルとなったのは昭和を代表する作曲家として数多くの名曲を残した服部良一さんです。
服部さんは戦前戦後の日本音楽史に多大な影響を与えていて、『別れのブルース(1937年)』・『東京ブギウギ(1947年)』・『青い山脈(1949年)』・『銀座カンカン娘(1949年)』などが代表作として挙げられます。
“日本ポップスの父”とも言われていてジャズをベースにしたブルース・マンボ・ボレロなどが作風の曲で庶民から愛された作曲科家として名を馳せていました。
[大阪での生誕から東京へ]
1907年10月1日に大阪市天王寺区で土人形師である父親の久吉と妻であるスエの間に姉ふたりと妹ふたりに挟まれて生まれました。
父親の影響もあって幼いころより音楽に親しみ、小学生のころから才能を発揮していたものの、商人の道を目指して大阪市立実践商業学校に通います。
その後、”出雲屋少年音楽隊”をへて19歳のときに”大阪フィルハーモニック・オーケストラ”に入団し、指揮者であった亡命ウクライナ人のエマニエル・メッテルに才能を見出され指導を受けました。
22歳のころから編曲にも携わるようになった服部さんは「タイヘイレコード」専属となり、それから2年後には「大阪コロムビア」で作曲家だった鳥取春陽のジャズ演歌の編曲にもかかわるようになります。
しかし「タイヘイレコード」での仕事に嫌気がさした服部さんは、1932年に上京して人形町にあったダンスホール「ユニオン」でサクスフォン添うさ者奏者として菊池博バンドの一員となり、翌年には「ニットーレコード」の音楽監督に就きました。
[コロムビアで専属作曲家となる]
1936年にコロムビアに入社して専属作曲家となった服部さんは、そうそうにスイングジャズを思わせる斬新な曲となった淡谷のり子の『おしゃれ娘』を作曲します。
さらには代表作のひとつとなった『別れのブルース』を手がけて、一流作曲家の仲間入りを果たしたのでした。
その後、次々と”和製ポピュラー”と呼ばれる作品を出し続けたのです。
しかし、そんな服部良一も太平洋戦争の戦時下ではジャズが敵性音楽として排除されてしまうのでした。
それでも軍歌一色だった音楽会にあって服部良一が作曲するものは抒情性に溢れていると票かされます。
しかし1944年になると逃げるように上海にジャズの活路を見出そうとしたのです。
[第二次大戦後の転換]
コロムビアに在籍しながら作曲活動を続けた服部良一は、かねてより取り組もうとしていたブギのリズムをつかって『荒城の月ブギ』を編曲します。
そして笠置シヅ子が歌った『東京ブギ』や『ヘイヘイブギ』をはじめ、時代を反映した『ホームラン』や大阪弁を活かした『買物ブギ』などの数々のブギウギをヒットさせたのでした。
さらに服部良一は作詞家としての才能も発揮していて、”村雨まさを”の名前で多くの曲をヒットさせたのです。
創作活動の傍らでは、日本作曲家協会や日本レコード大賞などの創設にかかわり、紫綬褒章(1969年)や勲三等瑞宝章(1978年)などを受賞し、その功績が認められたのでした。
日本の音楽史に大きな足跡を残した服部良一でしたが、1993年1月30日に呼吸不全で85歳の人生に幕を下ろしました。
さらに死後となったものの、国民栄誉賞(1993年)や第49回日本レコード大賞特別賞(2007年)が授与されています。
ブギウギ<服部良一さんと笠置シズ子さんの出会い,恋愛関係疑惑が
服部良一さんは上京してきたばかりの23歳の笠置シズ子が歌うのを聴いて、その歌唱力にほれ込んでしまったようです。
笠置シズ子さんは服部良一さんに鍛え上げられたことで、”ブギの女王”と呼ばれるまでに成長を遂げています。
シズ子の成長途中で東宝からスカウト引き抜きにあい、作曲家の服部良一氏との恋愛疑惑が浮上!!
引き抜きを阻止しようとして、松竹の創業者の別荘で監禁されていた笠置シヅ子さんは、心から信頼していた服部良一氏に救いを求める手紙を送りました。
その手紙に対して服部良一氏はこう返事しました。
・君がいなければ作曲する気が起きない
・松竹に残る理由が見つからない
・松竹を辞めるなら一緒に辞めよう
この言葉が世間に誤解されてしまい、笠置シヅ子さんと服部良一氏が恋人同士だという噂が広まりました。
服部良一氏は東宝の仕事もしていたため、松竹と東宝の板挟みになりました。
服部良一氏は両社のトラブルを解決するために奮闘し、最終的に笠置シヅ子さんは松竹に残ることとなりました。
ふたりがコンビを組んで数多くの曲をヒットさせることができたのは、戦後の暗い世相の中にあった多くの日本人に、希望と勇気と楽しみをもたらしたからでしょう。
スイング感が持ち味だった笠置シズ子さんでしたが、戦時中は激しい動きは戦意高揚をそぐとして厳しく制限されるなか、30歳のときに9歳年下の早大生だった吉本頴右さんと出会い恋に落ちます。
ところが頴右さんは吉本興行創始者の吉本せいさんの次男で、長男が既に他界していたため後継者だったのです。
妊娠を知り頴右さんは吉本家を説得することを約束しますが結核が悪化して亡くなってしまいます。
シングルマザーとなった笠置シズ子さんが服部良一さんに頼んでつくってもらった曲が、大ヒットとなった『東京ブギウギ』だったのでした。
以降は服部良一さんとのコンビでヒット曲を連発した笠置シズ子さんは、戦後の大スターへと突き進んだのでした。
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