2024年前期の朝ドラ『虎に翼』は、日本で初めて裁判所長に就任した女性、三淵嘉子さんの壮絶な人生を描いたものです。
ドラマをより楽しむために、主人公の猪爪寅子がモデルとなった三淵嘉子さんの家系図をたどって夫や息子さん、子供や子孫、ご家族についてや、三淵嘉子さんご本人の波乱万丈な生涯を詳しく紹介していきます。
虎に翼モデル三淵嘉子の家系図!初婚旦那,再婚相手の夫や息子や子孫子供,家族
モデル三淵嘉子の家系図
弁護士になった後、女性で初めて裁判所長になった三淵嘉子(旧姓:武藤)は、香川県丸亀市出身で東大法学部卒の父·貞雄と金貸しや不動産業を営む裕福な家に育った母·ノブの間に第一子として誕生しました。
父の貞雄が結婚してすぐに台湾銀行のシンガポール支店に転勤となり、そこで生まれたのが嘉子です。
「嘉子」という名前は、シンガポールの漢字表記「新嘉波」にちなんで付けられました。
猪爪寅子モデル三淵嘉子の家系図
◆武藤家
母方の祖父·武藤直言ー母方の祖母·駒子
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母·ノブー父·貞雄
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長女·嘉子
長男·一郎
次男·輝彦
三男·晟造
四男·泰夫
◆和田家
三淵嘉子=最初の夫·和田芳夫(1946年戦病死)
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芳夫との長男·芳武
◆三淵家
乾太郎の父·三淵忠彦(初代最高裁長官)
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再婚相手·三淵乾太郎=三淵嘉子
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長女·那珂
次女·奈津
三女·麻都
長男·力
(※乾太郎との実子はおらず、全て乾太郎の連れ子)
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◆三淵嘉子さんの家系図まとめ
- 三淵嘉子さんは、二度の結婚歴があり。
- 最初の夫は戦争で亡くなる。
- 再婚相手、三淵乾太郎さんという裁判官で、同じ職業の仲間。東京地方裁判所で判事。
- 三淵嘉子さんには、再婚相手の連れ子も含めて、5人の子供がいる。
- 子供たち・子孫の詳細な職業は不明。
- 三淵嘉子さんのご両親は、父親が台湾銀行に勤めるエリート
- 母親が不動産業を営む裕福な家庭の出身。
- 父親は東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業。母親は昔からの専業主婦。
◆三淵嘉子さんは旧姓は武藤。武藤家の5人兄弟の第一子で長女。
嘉子には最初の夫との間に芳武という男の子が1人います。
その後、夫の和田芳夫が戦地で病になり帰国後すぐに亡くなり、再婚相手·三淵乾太郎の連れ子である4人の子ども(一男三女)の継母となりました。再婚相手·三淵乾太郎さんは会津藩の末裔です。
三淵乾太郎さんは前妻との間に1男3女を授かるが、前妻は病死。
三淵嘉子の家系図本人,生涯
日本で初めて女性弁護士になった三淵嘉子さんは、1914(大正3)年に誕生。
また、女性として初めて裁判官や家庭裁判所長の地位に就いた人物でもあります。
1938(昭和13)年、三淵嘉子さんを含めた3人の女性が高等試験司法科試験(現在の司法試験)に合格し、そのニュースは新聞各紙で大きく報じられました。当時の社会では、女性が弁護士という職業に就くことは、驚くべき偉業でした。
その後、三淵嘉子さんは裁判官として活躍し、家庭裁判所の設立にも尽力しました。女性の権利を守るために様々な活動を行い、自分自身も家庭を持ちつつ仕事を続ける、まさに先駆者と言える女性でした。
三淵嘉子の家系図家族,父親:武藤貞雄
嘉子さんの父親である貞雄は、武藤家の養子となりました。貞雄の出生時の姓は宮武という名前でした。
貞雄は明治19年に生まれ、香川県にある公立中学校の丸亀中学を卒業した後、一高を経て東京帝大(現在の東京大学)に進学しました。貞雄は非常に優秀な学歴を持っていたことが分かります。
貞雄は大学を卒業すると、台湾銀行に入社しました。その後、シンガポール支部やニューヨーク支部で勤務した後に日本に帰国しました。
日本に帰国した貞雄は、東京都渋谷区に住居を構えました。
貞雄はエリートと呼べるサラリーマンでしたね。
ちなみに、嘉子さんは貞雄の長女として、貞雄がシンガポールで働いていた時に生まれました。
当時は「女性は家庭に入るべき」という考え方が一般的だったのですが、貞雄は嘉子さんに対して、
「何か専門的な仕事を身につけなさい。医者や弁護士などはどうだろう」
というようなことを言っていたそうです。貞雄は現代的な考え方を持っていた父親だったと言え、そんな父の影響を受けて育ったのでしょうね。
三淵嘉子の家系図家族,母親:武藤ノブ
三淵嘉子の母親は、武藤ノブという名前でした。
ノブは、不動産業を営む裕福な家庭に生まれたお嬢さんであり、当時の一般的な価値観に沿って「女性は結婚して家庭を守るべき」と考えていました。
そのため、娘の嘉子が弁護士になりたいと言って明治大学専門部女子部に入学しようとしたときには、「結婚できなくなる!」と激しく反対しました。
しかし、ノブは反対しながらも、娘が弁護士になるために苦労したり困難に立ち向かったりする姿を見て、密かに応援していたのかもしれません。
三淵嘉子の家系図家族,結婚相手初婚の夫・息子
三淵嘉子は人生で2度結婚しました。
最初の結婚は28歳のときでした。そのときはすでに弁護士として活躍していました。
最初の夫は和田芳夫という名前で、父親の親友の親戚にあたる人でした。
2人は幸せな結婚生活を送り、結婚から2年後には息子の芳武が生まれました。
しかし、その幸せは長く続きませんでした。
芳夫は1944年に息子が1歳になったばかりのとき、戦争で召集されてしまいました。
1946年に戦争が終わって上海から帰国する途中で、長崎陸軍病院で病気で亡くなってしまいました。
このとき息子の芳武は3歳でした。
嘉子は父母も既に亡くしており、一人で生きていくためには働くしかありませんでした。
自分にできる仕事は弁護士だけだったので、裁判官になるべく勉強を重ねて仕事を続けました。
三淵嘉子の家系図家族,再婚相手の旦那さん
最初の夫和田芳夫を亡くしてから10年後の1956年、嘉子は再び結婚しました。
再婚相手は三淵乾太郎という名前で、東京地方裁判所判事として働いていました。嘉子と同じ裁判官という立場だったのですね。
おそらく職場で恋愛関係になって結婚したのでしょう。
また三淵乾太郎も前に結婚していた妻を亡くしており、再婚だったこともありました。
三淵乾太郎には4人の子供がいて、嘉子は4人の継母となりました。
三淵嘉子の家系図家族,義父:三淵 忠彦,日本初代最高裁判所長官
嘉子さんの夫のお父様は、日本の初代最高裁判所長官を務められた三淵 忠彦(みぶち ただひこ)という方です。
三淵 忠彦さんは東京帝国大学法科に進学されましたが、両親や弟を亡くされてしまい、学業を中断されました。
その後、京都帝国大学の法科に再入学され、25歳で卒業された後は、地方裁判所や大審院で判事として活躍され、民事裁判官として高い評価を得られました。
三淵 忠彦さんが所有されていた小田原市の”甘柑荘”は、現在は一般に公開されている別荘ですね。
また、三淵 忠彦さんは会津藩士の家系に生まれられました。
お父様は三淵隆衡(みぶち たかひら)という方で、会津藩士の家老・萱野長修(かやの ながはる)の実の弟でした。
萱野家は会津藩で重要な役職に就いていた名門でしたが、戊辰(ぼしん)戦争で敗北した後は、藩主ではなく家老が責任を追及されました。その結果、萱野長修は切腹することになりました。
三淵 忠彦さんのお父様はその萱野長修の弟だったため、萱野家は断絶し、三淵(みぶち)という姓に変わりました。
つまり、日本の初代最高裁判所長官を務められた三淵 忠彦さんは、会津藩士の家老を代々務めてきた名家の末裔だったということです。
嘉子さんの夫のお母様は静(しず)さんとおっしゃいますね。
日本では名家同士が結びつくことが多いようですね。
三淵嘉子の家系図家族,子供・子孫
三淵嘉子さんは実子の息子として三淵芳武さんが1人おられることは前述しました。
再婚された三淵乾太郎さんには一男三女の4人のお子さんがいらっしゃったので、5人のお子さんを育てられたことになります。
三淵嘉子さんと三淵乾太郎さんの間にはお子さんは授からなかったそうです。
ですから、それぞれの連れ子である5人のお子さんがいらっしゃるということです。
三淵芳武(嘉子の実子)
三淵力
三淵麻都
三淵奈津
三淵那珂
という名前でした。お子さん達の詳しい職業などは分かりませんでした。
また、そのお子さん達から孫やひ孫がいらっしゃるかどうかも現時点ではわかりません。
虎に翼,猪爪寅子のモデル三淵嘉子の波乱万丈の生涯
モデル三淵嘉子という女性
嘉子は、香川県丸亀市出身で東大法学部卒の父·武藤貞雄と金貸しや不動産業を営む裕福な家に育った母·ノブの間に第一子として誕生。
嘉子は幼少期から聡明であり、歌やダンスが得意な少女で、放任主義の父·貞雄のもと伸び伸びと育ちました。
お茶の水高女(現:お茶の水女子大学)に進学した嘉子は、次第に法律家の道に進みたいと考えるように。
しかし戦前の日本は、”年頃の女性は大人しく家庭に入ること”が当たり前の時代。
嘉子を良妻賢母にしたいと思っていた母·ノブは、嘉子が花嫁切符を捨てて法律に行くことを知った時には猛反対されました。
周囲から”変わり者“と見られていた嘉子は、母の反対を押し切って明治大学の法学部に入学。
学校生活では、同じ道を志す女子部の同級生達と楽しく過ごしながらも勉学にはしっかり励み、男女合わせて成績がトップだったため、卒業式では総代を務めました。
司法試験での衝撃的な出来事
昭和13年(1938年)、嘉子は優秀な成績で司法試験に合格しますが、面接の場でショックな事実を知ることになります。
裁判官になれるのは”日本帝国の男子に限る“。
女性というだけで嘉子は裁判官になれなかったのです。
その後、嘉子は悔しさを噛みしめながらも弁護士になります。
同じ頃に同期だった久米愛と田中正子も、女性で初めて司法試験に合格して弁護士になりました。
久米愛はスラックスでつかつか歩いてくるイメージ、三淵嘉子は丸ぽちゃでおしゃべり好きの明るい人、中田正子はすらりとした貴婦人タイプ、と日本初の女性弁護士が三者三様であったことが語られています。
三淵嘉子の初婚結婚相手の夫・息子
弁護士になった翌年の昭和14年(1939年)。
嘉子は28歳の時に、父の中学時代の親友のいとこ·和田芳夫と結婚します。
法律を学ぶような女性の元にはあまり良い縁談が来なかったそうですが、芳夫はとても優しい性格で嘉子は幸せな結婚生活を送っていました。
結婚して1年ほどが過ぎた頃、2人の間には長男の芳武が誕生。
しかし、それからすぐに芳夫は召集され戦地に赴くことになり、嘉子も芳武を連れて福島県に疎開し、百姓の真似事をしてどうにかその日暮らしをしていました。
そして昭和20年(1945年)に終戦を迎えます。
芳夫は中国に渡ってすぐに発病し、長崎の陸軍病院に戻って来ていましたが、嘉子に会うことも出来ずに亡くなってしまいました。
嘉子は悲しみに暮れましたが、芳武はまだ3歳。
嘉子の両親も他界していたため、幼い芳武を育てていくためには裁判官になるしかないと嘉子は決意したのでした。
女性裁判官へ
戦後、男女平等が宣言されたことにより、ようやく石渡満子が女性裁判官の第一号となりました。
嘉子も家庭裁判所の勤務を経て、4か月遅れで裁判官になることが出来ました。
その頃、嘉子は裁判長·近藤完爾という人物に出会い、「あなたが女性であるからといって特別扱いはしない」と言われ、自分が男と平等に扱われることに喜びを感じていました。
そして嘉子は、子育てをしながら仕事を懸命にこなし、名古屋への転勤を経て東京へと戻ってくるのでした。
三淵嘉子の再婚相手・子供
東京での生活を再び始めた頃、嘉子がいる判事室を何度も訪れる紳士がいました。
初代最高裁長官·三淵忠彦の息子で自身も裁判官の三淵乾太郎です。
2人は知人の紹介で知り合い、仲を深めていき、恋愛の末に昭和31年(1956年)に嘉子41歳、乾太郎50歳で結婚しました。
どちらかと言えば、乾太郎の方が嘉子に夢中で、一緒に生活を始めてからも嘉子が権力を握っていました。
お互いが子連れの再婚であり、乾太郎には前妻との間に4人の子どもがいて、時には嘉子と乾太郎の長女が衝突することもあったようです。
仕事では理知的な嘉子でしたが、プライベートでは感情的で自分の意見を強引に押し通す時もあるのでした。
三淵嘉子、初の女性裁判所所長に
乾太郎と再婚して16年後、嘉子は新潟家庭裁判所で日本初の裁判所所長になりました。
明るくお茶目な性格をしていた嘉子は職員達から慕われていて、調停室の壁紙を優しい色に塗り替えたり、当事者の片方が暴力を振るった時のため防犯ブザーを付けるなど女性ならではの視点で気配りも欠かしませんでした。
嘉子は特に少年の問題に熱心に取り組み、様々な家庭のトラブルと向き合いました。
そして嘉子は65歳になった頃、定年のため裁判官を辞めるのでした。
三淵嘉子の晩年,死因・肺腺癌で
嘉子は退官後、日本婦人法律家協会の会長をはじめ、いくつかの役職を歴任します。
プライベートでは、夫の乾太郎や子ども達との旅行などを楽しみ、穏やかな生活を送っていました。
しかし昭和58年(1983年)、嘉子は肺腺癌と診断されます。
見つかった時には他の部分にも転移していて、手遅れの状態でした。
薬の副作用や激しい痛み、凄まじい闘病の甲斐も空しく、昭和59年(1984年)、嘉子はこの世を去りました。
享年69歳でした。
最期は、これまでの凄まじい闘病が嘘のように静かに息を引き取ったようです。
葬儀や告別式には2000人もの人が弔問に訪れ、嘉子との別れを惜しむのでした。
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三淵乾太郎さんとの出会い・連れ子たちと嘉子さんの関係は良好
◆前妻の死から結婚まで
星航一のモデルの三淵乾太郎さんは、初めて結婚した井沼祥子さんとの間に二人の娘をもうけました。彼女たちの名前は、長女が那珂さん、次女が奈都さんです。
1942年に司法事務官となった乾太郎さんは、その後、北京での領事職に就任しました。北京赴任中には、三女の麻都さんと長男の力さんが誕生し、家族は六人になりました。
しかし、祥子さんは結核に苦しみ、1955年までの長い間、病床に伏せる生活を余儀なくされました。
戦後、乾太郎さんは高等裁判所裁判官および最高裁判所調査官に就任しました。
1949年には小田原一家5人殺害事件の裁判官を務め、未成年の被告に死刑を宣告しましたが、個人としては控訴を勧めたことで話題となりました。
その後、嘉子さんと出会い、名古屋地方裁判所に勤務する彼女と遠距離恋愛を始めました。
二人は電話で頻繁に会話を楽しんでいたと言われています。
祥子さんが亡くなった翌年、嘉子さんは東京地方裁判所に転勤となり、二人の関係は公然となり、1956年に結婚しました。
乾太郎さんの子供たちは、新しい義母の出現に特に反発することなく、家族としての絆を深めていきました。
◆別居婚も関係は良好
乾太郎さんと嘉子さんは、裁判所の所長として忙しい生活を送りながらも、一時期は別居婚を経験しましたが、夫婦関係は常に良好でした。
乾太郎さんは甲府地方裁判所所長や浦和地方裁判所所長を歴任し、退任後は弁護士として活動を続けました。
大病を患いながらも、嘉子さんの献身的な看護のおかげで回復し、穏やかな日々を送っていましたが、1985年に嘉子さんを亡くした後、間もなく世を去りました。
周囲の人々は、乾太郎さんが嘉子さんに深い愛情を抱いていたと感じていました。
嘉子さんが夫を亡くした苦しみを経験していたことから、乾太郎さんは彼女に同じ悲しみを二度と味わせたくなかったのかもしれません。
◆長女 那珂さんと関係
三淵家の長女、那珂さんは、父・乾太郎さんの再婚時には既に結婚し、新たな家庭を築いていました。
夫・八木下巽さんは裁判官を退官後、弁護士として活躍。那珂さんは三淵家を離れていましたが、実家のことを常に気にかけ、時には継母・嘉子さんと意見が衝突することも。
しかし、嘉子さんとは料理の知識を交換するなど、良好な関係を保っていたようです。
◆次女、三女、長男との関係
次女・奈都さんは、嘉子さんが三淵家に来た当時、21歳で家族と暮らしていましたが、後に盛岡茂さんと結婚。
嘉子さんが危篤状態になった際には、夫婦で駆けつけたと伝えられています。
三女・麻都さんは、嘉子さんの介護に尽くし、時にはわがままに振り回されながらも、愛情を持って対応していたと言われています。
長男・力さんは、嘉子さんとの関係を温かく見守り、家族旅行を楽しむなど、家族の絆を深めていたようです。これらのエピソードは、三淵家の絆と、時代を超えた家族の愛の物語を語っています。
虎に翼あらすじ
虎に翼のあらすじ:昭和初期、日本初の女性専門に法律を教える学校が出来ます。
そこへ集ったのは、当時の日本のどこにも収まれない、溢れ出す何かを抱えた女性達であり、この物語の主人公·猪爪寅子も、そんな収まれない女性。
周囲から”魔女部“と陰口をたたかれた女性だけの学舎で、彼女達は自らの道を切り開くため法律を学んでいきます。
昭和13年(1938年)、卒業生から日本初の女性弁護士が誕生。
寅子もその1人として日本中から注目され憧れの的になりますが、弁護士として意気揚々と世に出た彼女達を待ち受けていたのは、戦争へと突き進んでいく日本でした。
法学という社会に羽ばたく翼を得たはずが、それを使える場は急速に消えてしまいます。
昭和20年(1945年)、焼け野原に立つ寅子は全てを失っていて、明日を生きるために頼れるのは、かつて学んだ法律だけ。
彼女は裁判官になることを決意。戦争で親を亡くした子どもや苦境に立たされた女性たちのため、家庭裁判所の設立に奔走し、寅子はついに裁判官になるのでした。
虎に翼 ネタバレ1話から最終回完結までドラマあらすじ
詳細がわかり次第、アップします。
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