第101作目となるNHKの連続テレビ小説の『スカーレット』が2019年9月30日から放送開始されます。
スカーレットは著名な信楽焼陶芸家の神山清子さんの半生を描いたドラマです。
神山清子さんの半生は2005年に『火火』にて実名で映画化されていましたが、この朝ドラはそのリメイク版とも云えるものです。
2019年8月初旬時点では『スカーレット』で神山清子さんの長男である賢一さんがどんな人物設定で登場するのかは明らかにされていません。
http://netabare1.com/4762.htmlより引用
今回はその神山賢一さんについて紹介します。
[神山賢一の生誕]
昭和36年2月16日生まれ。
滋賀県信楽町で神山易久と清子の長男として誕生した。
[神山賢一の半生]
https://saku-saku-a.com/463.htmlより引用
より神山易久と清子はともに近江化学陶器の社員であった。
1957年に結婚したふたりは独立して自宅に半地下式穴窯である”寸越窯”をつくって信楽焼の陶芸家としての活動を開始します。
しかし、神山易久は外に女をつくって家を出て行ってしまいました。
賢一は母である清子に自分がアルバイトしてでも姉の神山久美子と3人で頑張ろうと易久との離婚を促したのでした。
そして清子は易久と1974年に離婚したのでした。
易久と離婚した清子は自宅の半地下式穴窯”寸越窯”で釉薬を使わない”自然釉”を再現する研究を始めます。
この頃の陶芸家たちは男の世界で女である清子には多くの障壁が立ちふさがりました。
生活は苦しく借金取りに追われる日々が続きましたが、やっとの思いで釉薬を使わない”自然釉”で焼き物の色を出すことに成功した清子。
清子は、再現した”自然釉”の役物を”信楽自然釉”と名付けます。
これにより、ようやく女流陶芸家として認められた清子。
清子と苦労を共にしながらも賢一は信楽工業高校の窯業科に入ります。
そして工業高校を卒業した後の信楽窯業試験場での3年間の修行を経て清子の元で陶芸家としての活動を開始した賢一でした。
しかし、賢一は清子の釉薬を使わない”信楽自然釉”を継がずに、釉薬の可能性を追求し始めたて清子と対立したのです。
釉薬を使っての”天目茶碗”の製作に没頭した賢一。
ところが、まだ30歳にもならない賢一を激しい腰痛が襲います。
賢一の病院での検査の結果は”慢性骨髄白血病”でした。
姉の久美子を始めとして周囲の人たちにHLA検査を受けてもらうが適合者が見つからない賢一でした。
当時は骨髄バンク制度もありませんでしたが、知人たちが『神山賢一を救う会』を結成し、ドナー探しと募金活動を開始してくれます。
そして彼らの活動は広がって『神山賢一君支援団体連絡協議会』が発足されたのです。
当初の協議会の目的は賢一個人の支援団体でしたが、全国の白血病患者から自分たちも助けて欲しいとHLAデータが送られてきました。
これを見た賢一は全国の白血病患者も救おうと骨髄バンク活動を開始したのです。
精力的な活動の結果、全国からのドナー登録は3000人を越えました。
しかし、賢一に適合するHLAは依然として見つかりません。
しかも、当時のHLA検査費用は高く、『神山賢一を救う会』は大きな借金を抱えてしまったのでした。
これにとり莫大な借金を抱えてまま『神山賢一を救う会』は解散せざるを得なくなりました。
一方、全国規模での骨髄バンク設立の気運はたかまったこともあり、賢一は『骨髄バンクと患者を結ぶかんじや会』を設立し自らが会長に就任して骨髄バンク設立運動を開始しました。
一方、”滋賀県陶芸の森”で開催されていた”世界陶芸祭”に親子で出品していた賢一でしたが信楽鉄道事故で中止になってしまいます。
しかも、賢一の容態が急変して急性白血病に転化してしまったのです。
一刻を争う事態に、HLA検査が完全一致ではない叔母の静子から骨髄移植をすることにした賢一。
移植手術のより開放に向かった賢一。
そして平成3年に念願の『骨髄移植推進財団』が設立されたのでした。
喜んだのもつかの間、賢一は翌年早春に白血病を再発してしまいます。
清子は賢一が作りかけていた天目茶碗を自然釉で焼き上げます。
国宝級の天目茶碗が展示されている名古屋の徳川美術館を行きたいと云う賢一の望みを叶えるために、看護師を伴って出かけるも休館日。
信楽に戻った後、賢一さんは容体が急変し永眠したのでした。悲しみの死に…
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