エール 実在モデル 古関夫婦の内容です。
2020年前期の朝ドラは、激動の昭和を生きた作曲家と、その妻の半生を
描いた『エール』です。
朝ドラ第102作目となるエールは、2020年3月30日(月)から放送がスタートし、
全150回が予定されています。
エールは数々の名曲を生み出した作曲家・古関裕而さんと妻の金子さんを実在
モデルにした夫婦の波瀾万丈物語です。
主人公を窪田正孝さんが、ヒロインを二階堂ふみさんが演じます。
そこで今回は、朝ドラ第102作目となるエールの実在モデルである古関夫婦に
ついて紹介したいと思います。
エール 実在モデル 古関夫婦の夫・古関裕而さんについて
************************
古関裕而さんは、明治42年8月11日に福島県福島市大町の老舗呉服店「喜多三」
に生まれました。
喜多三は福島県でも有数の規模で、古関家は裕福な家庭でした。
父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつも
レコードをかけていたため、古関裕而は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど
独学で作曲の道を志していくようになります。
同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がいて、のちに作詞家の
野村俊夫となって古関とともに数々の曲を世に送り出すことになります。
大正5年(1916年)、古関は7歳のときに福島県師範学校附属小学校へ入学。
小学3年生の頃に担任となった遠藤喜美治が音楽好きで、児童に作曲や作詞を
させていたため、古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは
物足りなくなり、市販の妹尾楽譜などを買い求めました。
ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を持って古関に作曲を
依頼してくるようにり、こうして古関裕而は子供の頃から作曲に親しむことに
なりました。
大正11年(1922年)、音楽家の多い旧制福島商業学校(現 福島商業高等学校)に
入学。
商業学校に入ったのは家業を継ぐためでしたが、在学中に家業の呉服店が倒産
したため、呉服店を継ぐ必要がなくなりました。
このことを喜んだ古関裕而は、学業をそっちのけで、音楽に夢中になり、本格的
に作曲を開始するため、妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」などを買い集め、
独学での作曲法の勉強を続けていました。
その一方で、ハーモニカに熱中することになりました。
古関裕而は音楽学校への進学を夢見ていましたが、正式に音楽を勉強したわけ
ではなかったため、踏ん切りがつかないまま、福島商業学校を卒業しました。
卒業後、伯父の武藤茂平から川俣銀行(現 東邦銀行川俣支店)に誘われたため、
川俣銀行に勤務しながら、音楽活動を続けました。
この頃、学生時代から憧れていた山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送し、何度か
手紙のやり取りを行っています。
昭和4年(1929年)、古関裕而は20歳の時に、家族に内緒で作曲した管弦楽のため
の舞踊組曲『竹取物語』など4曲を
イギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募すると、
入賞を果たします。
ほとんど知られていませんが、これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける
入賞であり、当時の新聞でも大々的に報道されました。
この入賞の報道を読んだ声楽家志望の愛知県豊橋市在住の内山金子は、運命的な
ものを感じました。
その理由は、内山金子は小学校の学芸会で「かぐや姫」を演じていて、皆から
「かぐや姫」と呼ばれていたからでした。
そんな内山金子は古関にファンレターを送り、熱烈な文通を経て交際開始。
ところが、古関裕而はイギリスの作曲コンクールに入賞したことで、5年間の
イギリス留学の機会を得ていました。
古関裕而は川俣銀行を退職し、留学の間の金子との関係に悩んだ結果、金子に
プロポーズをして、交際からわずか3ヶ月の昭和5年(1930年)、古関21歳、
金子18歳でスピード結婚するのでした。
古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったようです。
この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていましたが、それらの楽譜
は現在ほとんど行方不明になっていて、『竹取物語』の所在もわかりません。
同年9月、コロムビアの顧問・山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家に
迎え入れられたため、夫婦で上京。
こうして、古関裕而はコロムビアの専属となる一方、早稲田大学から応援歌の
作曲を依頼され、『紺碧の空』を作曲しました。
すると、早稲田大学が早慶戦で慶應義塾大学を破ったため、古関裕而の名前は
応援歌の『紺碧の空』とともに広がりました。
古関裕而はコロムビアから『福島行進曲』と『福島夜曲』でレコードデビュー
したものの、福島県では蓄音器が普及していなかったので、レコードは売れず、
その後も鳴かず飛ばずでした。
やがて、古関裕而はコロムビアからクビを宣告されますが、何とかクビを
免れた一方で、ヒット曲を作らなければという重圧を抱えることに。
そんな中、昭和9年(1934年)、25歳で『利根の舟歌』が初ヒットすると、翌年
の昭和10年(1935年)『船頭可愛や』が大ヒットし、これに喜んだコロムビアの
社長は今までの累積赤字をチャラにしてくれることになりました。
さらに古関裕而は、昭和11年(1936年)に『大阪タイガースの歌(六甲おろし)』を
作曲しました。
この曲はレコード化されなかったことからヒットしませんでしたが、読売巨人軍
の歌や中日ドラゴンズの歌も作曲しています。
古関裕而はヒット曲を出したものの、流行歌には馴染めなかったため、歌謡界
では作曲家の古賀政男の足下にも及びませんでした。
しかし、戦争が状況を一変させます。
昭和12年(1937年)7月7日に、中国で盧溝橋事件が発生すると、日本では戦時歌謡
が目立つようになり、新聞社の戦時歌謡懸賞で『露営の歌』が2等に選ばれました。
コロムビアがその作曲を手掛けることになり、古関裕而が作曲をすることに
なりました。
レコード発売当初は売れませんでしたが、戦地から火が付き、数ヶ月後に
大ヒット。
出征する兵士に民衆が、「勝って来るぞと勇ましく」と大合唱するように
なりました。
さらに、昭和15年(1940年)、歌詞・野村俊夫、作曲・古関裕而、歌・伊藤久男の
3人が初めて手掛けた『暁に祈る』が大ヒット。
3人とも福島県出身だったため、【福島3羽ガラス】と呼ばれました。
昭和19年(1944年)、35歳になった古関裕而は『若鷺の歌』を大ヒットさせて、
戦時歌謡でその地位を不動のものとさせました。
しかし、その一方で自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を
持ち続けていました。
そのため、戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に
力を注ぎました。
昭和20年(1945年)の戦後に古関裕而は脚本家の菊田一夫とのコンビで、数多くの
NHKのラジオドラマを手掛けるようになり、伝説のラジオドラマ『君の名は』も
手掛けました。
その一方で、長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌『長崎の鐘』や『イヨマンテの夜』を作曲して、ヒットさせました。
昭和30年(1955年)、菊田一夫が小林一三に招かれて東宝に移籍すると、古関裕而
もラジオドラマから舞台へと活躍の場を移動し、菊田一夫と一緒に様々な作品を
手掛けました。
さらに、古関裕而は55歳の時に昭和39年(1964年)開催の東京オリンピックの
開会式に鳴り響いた「オリンピック・マーチ」を手掛け、それが古関裕而の
集大成となりました。
歌謡界では古賀政男の方が売れていましたが、クラシックにおいては日本で
古関裕而の右に出る者はいませんでした。
その後、古関裕而は昭和47年(1972年)の札幌オリンピックでも大会讃歌と閉会式
の曲を手掛けましたが、入場曲ではなかったので、話題になりませんでした。
翌年の昭和48年(1973年)に、菊田一夫が亡くなると、古関裕而は第一線から退き
ラジオドラマの音楽や音楽番組の審査員を務めるようになりました。
昭和55年(1980年)7月に、妻の金子が68歳で亡くなります。
それから5年後の昭和60年(1985年)に、タイガースがリーグ優勝を果たし、
「阪神タイガースの歌(大阪タイガースの歌)」が大流行しました。
そんな中、古関裕而は健康上の理由から昭和61年(1986年)に引退しました。
そして、傘寿の誕生日を迎えて1週間足らずの平成元年(1989年)8月18日に
古関裕而は脳梗塞のため、享年80歳でこの世を去りました。
古関裕而の死後、国民栄誉賞が贈られることが検討されましたが、遺族はそれを
断ったようです。
エール 実在モデル 古関夫婦の妻・古関金子さんについて
**************
古関金子は明治15年(1912年)の3月、愛知県豊橋市に産まれました。
父の内山安蔵は、馬具の製造をしていて、陸軍第15師団に納品していました。
古関金子は文学少女で、詩や絵、音楽なども好きだったことから、日本女子大学
の国文科に進学するか、声楽家になることを夢見ていました。
金子が12歳の頃に父の安蔵が亡くなり、母のミツが事業を引き継いだものの、
生活は厳しくなりましたが、歌の絶えない家庭でした。
そのため、金子は女学校を卒業すると、名古屋で働きながら、宝塚歌劇団を
目指し、歌の勉強をしました。
昭和5年(1930年)、金子は福島県の古関裕而がイギリスの作曲コンクールで
入賞したという新聞記事を見て、古関裕而に手紙を送り、2人は文通を開始。
古関裕而についてで紹介したように、この時、古関裕而は川俣銀行で働いていて、
作曲家としては無名でしたが、コンクールに入賞したことで、イギリス留学への
チャンスを得ていました。
留学している間に金子を別の男にとられるのではないかと心配した古関裕而は、
金子のいる愛知県豊橋市を訪れプロポーズ。
2人はそのまま婚前旅行に出かけて、結婚しました。
古関金子は古関裕而と結婚して、古関裕而の実家の倉で新婚生活を始めましたが、
古関裕而は結婚前に川俣銀行を退職していたので、ニート状態でした。
古関裕而はイギリスの作曲コンクールで入賞したにも関わらず、日本の音楽界は
無反応で、音楽の仕事の依頼はありませんでした。
しかし、幸運なことに、コロムビアの顧問・山田耕筰の推薦でコロムビア専属の
作曲家に迎え入れられるという話が舞い込みました。
古関金子が声楽の勉強をしたがっていたこともあり、古関裕而は日本コロムビア
の専属になることを決め、夫婦で上京することになりました。
こうして上京した古関金子は、昭和6年(1931年)に、帝国音楽学校に入学し、
本格的に声楽の勉強を始めました。
しかし、昭和7年(1932年)に長女が産まれ、昭和9年(1934年)には次女が
産まれたため、声楽家の夢を断念しました。
戦後、古関金子は声楽の勉強を再開します。
金子は日本では珍しいドラマチック・ソプラノの持ち主で、関係者の間で高い
評価を得ていました。
そのため、夫の古関裕而は周りから金子のために曲を作ってはとアドバイスされ、
昭和24年(1949年)にオペラ『朱金昭』など3作を作りました。
古関金子は古関裕而の作ったオペラ3作に出演し、NHKで放送されて高い評価を
得ましたが、昭和21年(1946年)に長男が産まれていたので、子育てに忙しかった
ため、オペラ3作を最後に声楽家から引退。
その後、古関金子には乳癌が判明します。
古関金子は2度の手術を受けましたが、4年間の闘病生活の末、昭和55年(1980年)
7月に68歳で亡くなりました。
*********************
ここまでが、朝ドラ第102作目となるエールの実在モデルである古関夫婦の
紹介でした。
エールの実在モデルである古関夫婦は、夫の裕而さんが作曲家、妻の金子さんが
声楽家として活動したようですが、エールでも裕一の妻となる音も声楽家として
活動するのでしょうか。
そして、実在モデルの2人は文通によって交際を開始し、交際から3ヶ月で
スピード結婚を果たしますが、エールでもそうなるのか気になりますね。
そうなると2人の結婚は割と早い段階で描かれると思われます。
実在モデルの古関夫婦は、妻の金子さんが先に亡くなっているため、エールでも
そうなると予想しています。
それが描かれる週では涙腺が崩壊することは間違いないでしょう。
その時まで2人のデコボコ夫婦ぶりを楽しみに見たいと思います。↓↓
≫朝ドラ エール あらすじ ネタバレ最終回まで!キャスト相関図 モデル結末を暴露!
スポンサード