『エール』は2020年3月30日から放送開始のNHKの102作目の朝ドラです。
今回は古山祐一の幼馴染で歌手の佐藤久志のモデルとなった伊藤久男の生涯について紹介します。
初婚結婚の奥さんや子供、浮気や再婚相手さんがいたので調べてみました( ゚Д゚)
エール佐藤久志の役柄とモデルについて
佐藤久志は古山祐一の同級生で、親は県議会議員をつとめている裕福な家庭に生まれました。
小学校5年になった祐一の担任は音楽に力を入れる藤堂先生になりました。
同じクラスには一風変わった金持ちの息子の佐藤久志もいたのでした。
時は流れて、祐一はコロンブスレコードと専属契約を結び上京して、音と一緒に生活を始めます。
その頃の音は東京帝国音楽学校に通っていて、学校の特別講演オペラの『椿姫』の練習をしていました。
そこに佐藤久志があらわれます。
プリンスと呼ばれていた久志は自分がレッスンすると言い出して、その相手に夏目千鶴子を指名したのでした。
その後、同僚の木枯正人にレコード化の先を越された落ち込んだ祐一を励まそうと、銀行仲間がカフェバンブーに誘います。
翌日、祐一と喧嘩した音は佐藤久志から声をかけられてバンブーに連れて来られます。
そこに忘れものをとりに来た祐一がきて、幼馴染のふたりは久々の再会を果たしたのでした。
そして、祐一が久志にうまく作曲できない悩みを相談すると、選ばれた者なのだからと激励されます。
暫くして祐一のもとに早稲田大学の応援歌を作曲して欲しいと云う依頼が飛び込んできます。
それは従弟が応援団に入っていたのを聞きつけた久志が仕向けていたのでした。
祐一が作曲した応援歌で早慶戦に勝利した早稲田大学。
祐一と鉄男と久志はそれぞれが作曲し作詞し歌うことで意気投合します。
そして彼らは後々に『福島三羽カラス』と呼ばれるようになっていきます。
<佐藤久志のモデルと言われる伊藤久男の生涯とは?>
伊藤久男の本名は四三男で福島県大宮市で1910年に誕生します。
父親は立憲政友会に所属した県議会議員で、兄は後々に自由民主党に所属して衆議院議員をつとめた伊藤幟と云う政治家一家で、とても裕福に育ちます。
そのため、家には当時としては珍しいピアノがあり四三男は旧制中学時代にはピアニストを目指すようになっていました。
そんな四三男は音楽の道を進むことを反対する家族や親戚をかわすために東京農業大学に進学し上京します。
その頃に、同郷の古関祐而と付き合いを深めて、家族に内緒で東京農業大学を退学して帝国音楽学校に通いはじめました。
しかし、ほどなく農業大学を勝手に退学したことが親元に知れて四三男は仕送りを止められてしまいました。
その頃より、四三男は音楽学校の同僚とともにコロンビアでのアルバイトを始めます。
ピアニストを目指す四三男にとってコロンビアでのアルバイト内容は不本意なものでしたが、これが後々に作曲家やディレクターとのつながりになっています。
古関祐而の勧めもあって1933年にリーガルから『今宵の雨』で
伊藤久男としてデビューします。
また、同年中に『ニセコスキー小唄』でコロンビアから宮本一夫としてもデビューしました。
その傍らでアルバイトでは内海四郎を名乗っていました。
そして、1935年にリリースされた『別れ来て』以降は伊藤久男に統一したのでした。
戦時歌謡が多かった久男は魅力的なバリトンで、一時期はオペラ歌手の道も模索しましたが、慰問演奏で藤原義江から流行歌手としてバリトンを活かすことを勧められます。
そして、服部良一や赤坂小梅らとの中国戦線慰問で自分の歌を聴いて涙する兵士の姿をみて流行歌手の道を進むことを決めました。
その後は、『暁に祈る』『白欄の歌』『高原の旅愁』『お島千太郎唄』などのヒットを出したスター階段を駆け上りました。
その一方で久男は多くの映画にも起用されスクリーンでも人気を集めました。
モデル伊藤久男の元妻:赤坂百太郎さん
1916年(大正5年)、京城に生まれ。本名『大西ふさ子』赤坂で芸者となって、1937年(昭和12年)に歌手デビュー。美人芸者歌手として活躍、「アリラン月夜」「夕日のアレリナ」など。1938年伊藤久男さんと結婚。4人の子どもを授かったが、伊藤久男さんの浮気が原因で、1950年に離婚。
伊藤久男さんの再婚相手:桃園ゆみかさんと子供たち
伊藤久男さんは、元宝塚歌劇団21期生の娘役・桃園ゆみかさんと再婚。
桃園ゆみか(ももぞのゆみか) 本名:伊藤あさの(いとうあさの)
生年月日:3月19日
出身:長崎県
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しかし、戦争が終ると戦時歌謡を多く歌った自責の念で疎開先に引きこもって酒に溺れる日々をおくります。
再起不能と言われていた久男でしたが、1947年に松竹映画の主題歌『夜更けの街』でカムバックをはたします。
『シベリア・エレジー』『イヨマンテの夜』『あざみの歌』『山のけむり』『君いとしき人よ』など、その後はジャンルにとらわれずに数々の歌を歌いヒットを重ねました。
そんな伊藤久男は同郷の古関祐而の作品も多くレコーディングしました。
軍事歌謡では、『露営の歌』『続露営の歌』『暁に祈る』『海底万里』、歌謡曲では『イヨマンテの夜』『君いとしき人よ』などを残しています。
そして、高校野球全国大会が開催される夏の甲子園で歌われている『栄冠は君に輝く』も古関が作曲して伊藤久男が歌ったものです。
そして、『イヨマンテの夜』で初めてNHK紅白歌合戦出場をはたすと以降は常連となり11回を数えました。
晩年は、酒の飲み過ぎがたたり糖尿病で苦しみますが、それでもステージに立ち続けます。
1978年の紫綬褒章を受章し、1982年に第24回日本レコード大賞特別賞を受賞します。
伊藤久男が公に姿を見せたのはレコード大賞受賞時の中継が最後で、翌1983年に肺気腫でその一生を終えました。
享年72歳でした。
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