朝ドラあんぱん15週ネタバレあらすじ
です。
あんぱん15週あらすじとして、のぶとタカシの実在モデル,小松暢(のぶ)さんとやなせたかし(柳瀬タカシ)さんの結婚後の生活と、柳瀬さんの漫画家としての道のりについてお送りします。史実から予測すると14週ではタカシの告白までが描かれ、15週では結婚後の生活が描かれると思います。
・15週あらすじ史実より、、のぶと柳瀬の結婚後の生活
「柳瀬さんの赤ちゃんが産みたい」というのぶの直球の告白から、柳瀬はのぶと結婚しようと決心したそうです。のぶもそう思ったと思うのですが、次の、のぶの行動が意外でした。東京で働いていた時の上司が政治家になるので秘書になってほしいと頼まれたそうで、「私は先に上京して柳瀬さんを待っているわ」と、のぶは高知新聞社に辞表を提出してさっさと上京していってしまいます。
・タカシとのぶの結婚生柳瀬とのぶの結婚生活)
そんなのぶの行動力にあっけにとられる柳瀬でしたが、せっかく結ばれたのぶが東京に行ってしまって仕事に身が入りません。高校は東京高等工芸学校でデザイナーの勉強をしていて、戦争前の1年だけ田辺製薬でデザイナーとして就職していた柳瀬は、自分もこのまま高知新聞社の記者として終わりたくないと上京してデザイナー兼漫画家になりたいと思い、1年後にのぶを追いかけて柳瀬も上京します。昔の話ですのでわずか1年で腰かけにして退社とはけしからんという話もありましたが、才色兼備のカップルが東京の焼け跡を目指して旅立っていったと噂になったそうです。
そして上京した柳瀬はのぶの下宿先に転がり込みます。下宿先は一軒家の子供部屋で、のぶの友人の建築屋さんが自宅の子供部屋を貸してくれていたので、そこに無料で下宿しました。大倉山の駅前にある立派な家だったそうです。子供と同居していたのか、その建築屋の坊やをベッドで寝かしつけてから自分たちも寝るという生活だったそうです。のぶと柳瀬の事実上の結婚生活の始まりです。柳瀬はのぶのことを**「オブちゃん」**と呼びました。ちなみに2人はこのまま正式な結婚式をすることはありませんでした。このことについて、のぶは「私たちは結婚式の写真がない」と柳瀬に対してずっと文句を言い続けたそうです。
柳瀬はしばらく、新橋駅前の田辺製薬時代の仲間がやっていた図案社に勤めていました。戦後の日本は言論出版の自由が認められ、雑誌の創刊ラッシュが起こりました。みんな娯楽に飢えていたのです。アメリカの影響を受けた広告デザインも登場し、デザイナーの仕事は面白いほどあったと柳瀬は回想していますが、イラストを描くのは得意だけどレイアウトや文字組み、デザインのルールを意識した図案を作るのは苦手だったので、会社ではあまり役に立たなかったとも言っています。
デザインの仕事が山ほどあった時代、ちょうど三越主催で戦後第1回の日本広告美術展をやっていたので、柳瀬が応募したらデパート部門の特選に入選します。同時に三越で宣伝部を作るということでデザイナーの募集があったので、柳瀬は面接を受けに行きます。作品持参の面接なのに手ぶらで行った柳瀬は、面接で「作品は?」と聞かれると「ポスター展の会場にある」と答えたらしいです。女性には弱気なくせに面接では強気。
図々しいやつということでほとんど落ちる予定だったそうです。ですが、採用を検討する際に高知出身の重役がおり「面白そう、俺が責任取るから入れてやってくれ」ということで入社が許されます。これで共働きでなんとか食べていけるということで、2人は中目黒のアパートに引っ越しします。空襲の焼け残りのボロアパートは6畳一間に押入れとキッチンだけ。もちろん風呂なしでトイレは共同で、なんとそのトイレの屋根に穴が開いており、雨の日は傘をさして用を足すというもの。
ただ晴れた夜は頭上にまたたく星を見ながら用が足せるという珍しい設計になっていました。のぶと柳瀬の部屋はアパートの2階でしたが、階段の板はいくつか腐っているので、ぼーっとしていると落っこちる。慌てて手すりに捕まれば手すりごと崩壊しそうで余計に危険というドリフみたいな作りです。ボロボロアパートでしたが駅まで見通せて眺めが良く、日当たりも良い。周りはのどかな田舎の風景だけど近くに銭湯、肉屋、八百屋、郵便局全部揃っていて、2人で銭湯に行って隣の八百屋で柿を買ってかじりながらアパートに帰ったりしていたそうです。貧しいながらも2人きりの生活。「みんな貧しかったから何の苦にもならない」「私こんな生活を夢見ていたの、とっても幸せよ」とのぶは言ったそうです。
三越宣伝部に入社した柳瀬は、店内装飾、ショーウインドー、売り場の看板のデザインなどを手掛けます。この時に柳瀬は自分は絵を描くのが好きなんだと改めて認識します。ちなみに今の三越の包装紙デザインは戦後の洋画家、モダン派の猪熊弦一郎ですが、文字の「三越」は柳瀬が書いた文字になります。「場所は指定してあるから『三越』という字はそっちで書いてね」と猪熊に言われた柳瀬が「担当者だから仕方ないな」と書いた文字になります。この包装紙は「花開く」というデザインなのですが、白と赤のデザインが空襲の焼け跡が残る街で本当に花が開いたように明るく目立ち、戦後の町で大変話題になったそうです。柳瀬は三越の仕事をこなしながらも内職で漫画を書き出します。漫画の仕事も世の中に溢れています。
・漫画家デビューの道
柳瀬は三越の仕事をこなしながらも内職で漫画を書き出します。漫画の仕事も世の中に溢れています。
当時は漫画の神様、手塚治虫がブレークしてきたところ。漫画の花形は新聞や雑誌に掲載される4コマの大人漫画でした。柳瀬も当時は『サザエさん』の長谷川町子や『フクちゃん』の横山隆一に憧れていました。
雑誌の片隅に挿入される挿絵漫画をたくさん描いているうち、アルバイトの漫画の給料が三越の給料の3倍になった時、柳瀬は三越をやめて漫画家を目指すことを決意します。「本当は会社辞めたいけど大丈夫かな?食っていけるかな?」とぐずぐず悩んでいた時に背中を押したのがのぶでした。「やめちゃいなさいよ。なんとかなるわ。収入がなければ私が働いて食べさせてあげる」この一言に背中を押されて柳瀬は漫画家として独立することを目指します。昭和28年、柳瀬が34歳の時でした。
さあ、ここから大変厳しい柳瀬の漫画家人生が始まりますというわけではなく、本人としては漫画家として有名になれないことが辛かったと回想していますが、基本的にはお金と仕事には困りません。まずは三越で貯めたお金で新宿区の荒木町に仕事場つきの家を建てたので、住む所には困らない。最初こそは暇でしょうがないので黒板を買ってきて嘘のスケジュールを書き「忙しい忙しい」とのぶに見栄を張っていましたが、漫画家の団体「漫画集団」に所属したため漫画の仕事も回ってくるし、当時の漫画は大人漫画で広告に使われるのでマスコミの人脈ができます。
芸能人にインタビューして漫画が入った記事を書いたり、芸能人のリサイタルの構成を書いたり、ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』の舞台装置を考えたり、ラジオドラマのシナリオを考えたり、挙句にはテレビに出演するなどマルチ人間と言われるくらいの活躍です。「柳瀬さんってテレビによく出てた漫画家だよね」と記憶されてる方もおられると思います。黒柳徹子さんみたいなですかね。
柳瀬は詩を描くのが好きで『手のひらを太陽に』の歌詞は柳瀬たかしが書いています。詩を描いた時は10歳年下の超天才、手塚治虫が大ブレークして漫画の神様と呼ばれている時代。4コマ漫画の仕事が減ってきて、うつうつとしながらも徹夜で仕事をしている時に、退屈だから懐中電灯を自分の手のひらに当ててみたら、血の色がびっくりするほど赤くて綺麗で「こんなにも落ち込んでいるのに血は元気に流れている」と励まされたような気がして歌詞の一説が思い浮かんだそうです。その詩にE.O.P.(イオピー)のミュージカルで仲良くなったいずみたくが曲をつけてできたのが『手のひらを太陽に』です。いずみたくは坂本九の『見上げてごらん夜の星を』の作曲家。歌うのは紅白歌手の宮城まり子**。なんだよ、そのキラキラ人脈自慢してんのかよ**という感じもしますが、周囲からは「困った時の柳瀬さん」とか「早書き柳瀬」と言われてとても頼りにされていました。
ただ当人としては一流の漫画家になりたかったわけで、お金は稼げてもなりたい自分になれてなかったことが辛かったようです。そんな柳瀬をのぶは「あなたは普通の人とちょっと違うところがある。必ずいつか認められます」と励まし続けたそうです。
➡あんぱん公式ガイドブック・小説 13週まであらすじのってます⇓⇓
ネタバレ一覧⇓⇓
スポンサード