らんまん妻モデル寿恵子!最初の妻猶と離婚後に現妻・壽衛子と出会う

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朝ドラ「らんまん」のモデル妻の寿恵子(すえこ)についての生涯まとめ!

さらに牧野富太郎には、寿恵子(すえこ)の前に他の妻がいた!最初の妻-猶と離婚/試し婚後に、二人目の現妻・壽衛子と衝撃出会いまでについての内容です。

2023年前期のNHK朝ドラ第108作となる『らんまん』は、2023年4月3日(月)から放送がスタート全26週(130回)の予定。

『らんまん』は、日本の植物学者・牧野富太郎さん(以下、敬称略)をモデルとしていますが、フィクションとして制作され、原作は無くドラマオリジナル作品です。

その喜びと発見に満ちた生命力あふれる人生を、美しい草花の情景とともに描き、日本の朝に癒しと感動のひとときをお届けします。

時代は幕末から明治、そして激動の大正・昭和へ ―

そんな混乱の時代の渦中で、愛する植物のために一途に情熱的に突き進んだ主人公・槙野万太郎とその妻・寿恵子の波乱万丈な生涯を描いた作品です。

主人公・槙野万太郎神木隆之介さんが演じています。また、妻・槙野寿恵子(まきのすえこ)浜辺美波さんが演じます。

動画】朝ドラ「らんまん」県内撮影開始 神木隆之介さん、浜辺 ...

牧野富太郎の妻は、壽衛子が知られていますが、実は牧野富太郎が小澤壽衛子と結婚する以前に結婚していた最初の妻がいました。

それが牧野猶という女性です。

そこで今回は、朝ドラ らんまん あまり知られていない最初の妻・牧野猶はどんな人だったのか、そして2人目の妻・小澤壽衛子について詳しく紹介したいと思います。

らんまん実在モデル妻について!牧野富太郎最初の妻の猶、2人目の妻・壽衛子の出会い

らんまん実在モデル妻たち! 牧野富太郎 最初の妻・牧野猶とは!?

現妻の寿恵子の説明の前に、牧野富太郎の最初の妻の、牧野猶という女性を紹介します。

牧野猶は牧野富太郎の従妹で、実家の造り酒屋を手伝っていました。

富太郎と猶がいつ頃結婚したのかという情報はどこにも無いため、正確には
わかりません。

富太郎にとっては望まない結婚だったため、すぐに離婚したという話もあります。

それにしても、牧野猶という女性は富太郎の史実にほとんど登場しません。

牧野富太郎を語る上で、牧野猶はどの様な存在だったのでしょうか。

牧野富太郎と猶の結婚についての実態予想

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牧野富太郎が十代の頃、自分も周りの家族も実家の造り酒屋を継ぐと思っていた
ため、ちょうど造り酒屋を手伝っている従妹である牧野猶と結婚したら良いの
ではないか、と周りが勧めました。

富太郎は植物以外には興味が無いので、勧められるまま結婚を受け入れます

やがて富太郎の植物研究への情熱が抑えきれなくなり、ついに家を出て東京へ。

東京へ出てからは、実家のことをあまり顧みておらず、そのまま疎遠(離婚)に
なっていったのではないでしょうか。

もしくは、植物ばかりにこだわっていた富太郎に、誰かと結婚したら家業に力を
入れてくれるかもしれない、という祖母の浪子が一縷の望みをかけた結婚だった
のかもしれません。

当時は身近な親戚や従妹との結婚は珍しくありませんでした。

親族との結婚は勝手知ったる者同士ですし、岸屋の面々も接しやすく、財産の
離散もありません。

猶は働き者で、祖母の浪子と一緒に忙しく店の切り盛りをしていたようです。

また、明治時代の始めには、「試し婚」や「足入れ婚」と呼ばれる結婚の形態が
あり、富太郎と猶もそうだった可能性もあります。

試し婚・足入れ婚とは?

試し婚・足入れ婚とは、嫁や婿をもらってもすぐには婚姻届を役所に出さず、
一定期間、生活をともにする風習のこと。

入籍はせずに結婚生活を送り、姑が気に入れば入籍、気に入らなければ追い出す
ということが行われていたのです。

また、明治時代にはまだ男性は公に妾を持つことが出来たため、富太郎自身も
最初の結婚のことをそれほど意識していなかったのかもしれません。

あくまでも想像に過ぎませんが、牧野富太郎は結構なイケメンでしたし、まだ
1人の女性に縛られたくなかったかもしれません。

1877年(明治20年)に、実家を取り仕切っていた祖母・浪子が亡くなりましたが、
店と家は番頭と従妹がいたため、商売を続けることが出来たとされています。

もしかしたらこの従妹が牧野猶で、牧野富太郎と離婚した後も、そのまま家事
手伝いを続けてくれていた可能性があります。

また、浪子の葬式は猶が取り仕切っていたという話もあり、その後にあっけなく
捨てたのかもしれません。

ただ、高知県立牧野植物園の紹介にも、牧野富太郎自叙伝にも牧野猶についての
詳細な記載はありません。

愛の無い結婚だったかもしれませんが、あまりにも不憫に思われますが、従妹と
いうことですので、あえて2人の結婚についての詳細は記載しないと親族間で
決めていた可能性もありますね。

こちらも憶測でしかありませんので、事実がどうであったかはわかりません。

らんまんモデル 牧野富太郎の現妻-2人目の妻・壽衛子について 衝撃出会い一目ぼれ


(引用元:https://twitter.com/kuniaki_shimbo/status/1491337018290630660/photo/1)

牧野富太郎の2番目の妻が小澤壽衛子です。

壽衛子との衝撃出会い一目ぼれと結婚

牧野富太郎の東京麹町の下宿から大学に通う道に菓子屋がありました。お酒が飲めなかった富太郎は、大学へ通う途中の菓子屋によく訪れていました。

富太郎は酒もタバコもやらない一方で、菓子のことが大好きで、その菓子屋に目を止め、そこにいた美しい娘・小澤壽衛子に一目惚れをしたのです。小澤壽衛子が娘の頃の家は裕福で、壽衛子は踊りや三味線の稽古もしていて、粋な芸者のようだったらしいので、きっと洗練された美人だったのでしょう。

壽衛子自身も、良く店に来てくれる富太郎のことが気になっていました。気前よくお菓子を買っていく富太郎に好感を持っていたのです。話はとんとん拍子に進み、すぐに根岸の一軒家を借りて同棲をスタートさせました。

 

それから2人は、1890年(明治23年)に結婚

新婚当初は生活にも余裕があり、牧野富太郎はこれまで通り研究費と実家を頼りにして、贅沢に暮らしていました。

しかし、実家の造り酒屋が破産してしまいます。

壽衛子の長女の死

そして富太郎の給料だけでの暮らしになり、そのうち牧野家には13人もの子どもが次々と生まれ(そのうち育ったのは7人)、食費も足らなくなってきました。

しかし、明治26年(1893)の長女・園子の死去は2人にとっても特別なものでした。園子は、4歳まで成長していたし、一番上の子供だったからです。

また、富太郎は植物の研究のためならどんなに高い本でも購入していたようで、牧野家はますます貧乏になり、借金も増えていくことに。

壽衛子、店を出す!待合とは?天才的経営手腕があった!

そこで貧乏を解消するために、壽衛子は1921年(大正10年)頃、渋谷花柳界の荒木山という場所に壽衛子のもう1つの名「今村」という待合の店を出しました。

待合とは……

明治から昭和初期頃に流行した待合茶屋のことで、そこに芸奴を呼んで遊んだり飲食をする場所のこと。

また、そのまま宿泊できる部屋が用意されているところもあり、政治家の密談
場所としても利用されていました。

壽衛子は経営に関しては素人だったそうですが、いきなり待合のような店を始める大胆さがありました。

実は壽衛子の母親も、壽衛子の父である夫の死後、芸姑置屋を営んでいたという
話もあり、母親の才覚を間近で見ていて知らぬ間に壽衛子は店の経営術を身に付けていたのかもしれませんね。

壽衛子の経営手腕について、富太郎はある座談会で以下のように述べていたそうです。

それは外でもないがこの待合は私自身が開業したものではなく、これは長谷川君
のいわれた通り私の妻がやった事であって、その店は私とは世帯が別になっていた。

故に私は待合の家には住まっていなかった。

そしてこの事件は勿論今日の事ではなくて最早や今から二十七年も前の大正十年
頃の出来事である。

私の妻が事もあろうに何ゆえこんな恥も外聞も構わぬ大それた芸当をしたのか
というと、それは当時私一家が貧乏のどん底に陥っていたので早く金を得て
焦眉の急を救い、我が家の経済を立て直さんとするのが唯一の目的であって、
それには待合が一番早く金を得るのに都合がよいとの事でこれを選んだわけだ。

そして妻は素人ながらも待合業を経営するぐらいな天才的手腕は持合せていた。

故に何の臆するところなく大胆にその業をはじめ、渋谷花柳界での荒木山に妻の
姓〔別姓〕である「今村」の看板を掲げたのであったが、その後故あって廃業
して仕舞い一場の昔譚を今日に残したその妻も今は疾く亡き人の数に入った。

【出典:牧野富太郎自叙伝】

 

富太郎曰く、「妻は素人ながらも待合業を経営するぐらいな天才的手腕は持合せていた」そうです。

待合は出入りする人も多く、そのお客様達の秘密を守ったり、常連の人達への
気を抜けない対応や細やかな心遣いも必要です。

酒と欲望渦巻く場所でもあるため、厄介な揉め事なども起きる可能性もあり、
とても大変な仕事だったのではないでしょうか。

ところが、富太郎は一切「今村」には関わっていないようです。

子ども達も何かしら手伝っていたのかもしれませんが、実質1人でこの待合を
切り盛りしていたのだとすると、壽衛子はまさに天才的な手腕を持っていたと
言えるでしょう。

しかし、この待合は、長くは続かず最後は悪い客が付いて、貸し倒れになり、
店を閉じたと言われています。

とは言え、壽衛子の店のおかげで牧野家は生活を立て直すことに成功し、富太郎
は大好きな研究に没頭することが出来たのです。

 

 

やがて東大泉に家を建てる頃になると、壽衛子は今度は植物園を作ろうという
夢を抱くようになりました。

 

壽衛子の死 妻の名前を植物名に

しかし、その夢は叶うこと無く、1928年(昭和3年)に55歳で亡くなるのでした。

 

壽衛子の死までの経緯としては、、

壽衛子は、病院にかかることが増えてきました。しかし、富太郎は仕事が忙しく全国を飛び回る生活をしていました。

 

富太郎は、新種のササを見つけて家にもって帰りました。壽衛子の体調はすぐれず入院。それから、1ヶ月足らずの間に、壽衛子は亡くなります。壽衛子は40年間、富太郎と一緒にすごしましたが、文句ひとつ言いませんでした。

 

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ここまでが、朝ドラ らんまん牧野富太郎最初の妻の猶、2人目の妻・壽衛子に
ついての紹介でした。

牧野富太郎の妻は、壽衛子ばかりが有名でらんまんの妻も寿恵子だけだと思います。

しかし、実は富太郎の最初の妻は従妹の牧野猶だったようですね。

2人の結婚は愛が無いものだったのか、「試し婚」や「足入れ婚」などのように
実際には籍を入れない結婚だったのか本当のところはわかりません。

ですが、猶は岸屋で一生懸命働き、浪子の死の時にも猶が取り仕切っていたと
いう話もあるようですので、富太郎の生家である岸屋を必死で支えていた人物で
あることは間違いなさそうです。

猶も再婚などして幸せに暮らせていたらと思うばかりです。

富太郎の2人目の妻である小澤壽衛子は、たくさんの子どもを育てながらも、
研究のためにはお金を厭わない富太郎のために、待合の店を出し、富太郎を
支えました。

その経営手腕は天才的であったと富太郎も述べていることから、らんまんでも
そのような展開があると思います。

浜辺美波さん演じる寿恵子の経営手腕についても必見ですね。


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