らんまんモデル牧野富太郎!坂本竜馬の接点!酒蔵破産?イケメン画像

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らんまん主人公の槙野万太郎の実在モデルの牧野富太郎の生涯を詳しく説明!坂本竜馬との接点や関係や、実家を破産させた?の噂や、若いころのイケメン画像-生涯を年表一覧でまとめてます。

2023年前期のNHK朝ドラ第108作となる『らんまん』は、2023年4月3日(月)から放送がスタート全26週(130回)が予定されています。この方が⇓らんまんの実在モデルの牧野富太郎さんです⇓⇓

『らんまん』は、日本の植物学者・牧野富太郎さん(以下、敬称略)をモデルと
していますが、フィクションとして制作され、原作は無くドラマオリジナル作品です。

その喜びと発見に満ちた生命力あふれる人生を、美しい草花の情景とともに描き、
日本の朝に癒しと感動のひとときをお届けします。

時代は幕末から明治、そして激動の大正・昭和へ ―

そんな混乱の時代の渦中で、愛する植物のために一途に情熱的に突き進んだ
主人公・槙野万太郎とその妻・寿恵子の波乱万丈な生涯を描いています。

主人公・槙野万太郎(モデル牧野富太郎)神木隆之介さんが演じています。

そこで今回は、朝ドラ らんまんの実在モデル・牧野富太郎さんと坂本竜馬との関係や 年表一覧とイケメン画像について紹介したいと思います。

らんまん万太郎の実在モデル・牧野富太郎の坂本竜馬と接点や関係は

なぜ龍馬が『らんまん』に登場するのか | NHK
(引用元:https://twitter.com

最後に牧野富太郎の生涯や坂本龍馬との接点について、詳しく紹介していきます。

牧野富太郎、高知の裕福な家に生まれる

1862年(文久2年)、土佐国佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)で、近隣から佐川の
岸屋」と呼ばれた商家(雑貨業)と酒造業を営み、武士では無いのに、苗字が
与えられるような裕福な家に生まれました

時代的には、坂本龍馬が藩の許しを得ないまま土佐藩を脱藩した頃です。二人の関係はというと、直接的には二人は関わってないですが、同じ土佐藩出身ということで、富太郎の生まれた文久2年(1862年)4月24日は、坂本龍馬 脱藩のちょうど1ヶ月後にあたります。龍馬ファンならよくご存知の『吉野に花見に行く・・・』と言い残して脱藩した日が3月24日ですね。

なので牧野富太郎と坂本龍馬はもしかしたら、すれ違っているかもしれないですが、二人の関係はありませんでした(;’∀’)

『らんまん』はモデルとなっている牧野富太郎博士の実履歴に近いものが多く盛り込まれているので、実際に坂本龍馬と接点があったのかが気になりますね。

 

デーン藤岡が演じる龍馬のインパクトが大きかっただけに知りたいところです。

 

でも残念ながら実際に出会っていたという記録は残されていないようです。

 

しかも慶応3年の11月に坂本龍馬は暗殺されてしまっていて、牧野博士と万太郎の生誕には30年以上の違いがあるのでフィクションでしょうね。

らんまん万太郎の実在モデル・牧野富太郎の生涯を晩年の死まで詳細

牧野富太郎は、元は「成太郎」という名でしたが、3歳で父、5歳で母、6歳で祖父
を亡くした頃に、「富太郎」に改名。

富太郎は、幼少の頃から植物に興味を示していたと伝わります。

祖父が亡くなった後、富太郎は祖母の浪子に育てられました。

そのため富太郎は浪子に、「岸屋」の跡取りとして、それはそれは可愛がられて
育てられたようです。

富太郎、小学校を2年で自主退学!?

10歳から富太郎は土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳になると郷校である
名教館に入り、儒学者・伊藤蘭林に学びます。

当時、同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の”港湾工学の父“・
広井勇らがいました。

漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』など
を通じ、富太郎は西洋流の地理・天文・物理を学んでいきます。

その後、名教館は学制改革により、校舎はそのままに佐川小学校となりました。

裕福な家庭環境と浪子の理解もあり、富太郎は小学校を2年で自主退学し、
野山を歩き回ったり、浪子に高価な本を買ってもらい、大好きな植物採集に
明け暮れる生活を送るように。

さて、富太郎が小学校を中退した理由としては、造り酒屋の跡取りだったため、小学校などで学業を修め、学問で身を立てることは全く考えていなかったからだ
と後に述べています。

しかし、富太郎は小学校を中退後、酒屋は祖母と番頭に任せ、気ままな生活を
送っていました。

そして富太郎は、15歳から佐川小学校の「授業生」=”臨時教員“として約2年間、
教鞭をとりました。

佐川で勉強するだけでは物足りなくなった富太郎は、植物の採集・写生・観察など
の研究を続けながら、17歳になると高知師範学校の教師永沼小一郎を通じて、
欧米の植物学に触れ、当時の著名な学者の知己も得るようになります。

牧野は自叙伝で、「私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である
と記しています。

そして、江戸時代の本草学者・小野蘭山の手による『本草綱目啓蒙』に出会い、
本草学とりわけ植物学に傾倒するように。

自らを「植物の精(精霊)」だと感じた富太郎は、日本中の植物を同書のように
まとめ上げる夢を抱き、それは自分にしか出来ない仕事だと確信するように
なります。

富太郎、上京する

実家「岸屋」の経営に全く興味が無くなった富太郎は、思い切って祖母・浪子に、
一生をかけて植物の研究をしたいから高知から出ていきたいと打ち明けました。

祖母はたった1人の跡取りがいなくなることを残念に思いましたが、富太郎の
情熱と才能に負け、東京に送り出すことに

そして富太郎が19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を
目的に、番頭の息子と会計係の2人を連れて初めて上京

東京では博物局の田中芳男と小野職愨の元を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり
植物園を見学したりしました。

富太郎は本格的な植物学を志すため、1884年(明治17年)、22歳の時に再び
上京します。

そこで帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)植物学教室の矢田部良吉教授を
訪ねると、優秀な助手の松村任三もそこにはいました。

2人は、高知から山ほどの標本と植物画を持ち、訪ねてきた富太郎の知識や
専門的な考え方、植物画の正確さに驚きます。

そして、これから日本中の植物を調べて目録を作り発表したい、と、にわかに
信じがたいことを話す富太郎を訝しく感じながらも、情熱は本物だと感じた
矢田部教授により、この植物学教室の本や資料を好きに見て良いという許しを
富太郎は得たのです。

しかし、この許しが後々、富太郎の才能と実力も相まって、矢田部教授や植物学
教室を脅かすものとなります。

文献・資料などの使用を許可された富太郎は研究に没頭していきます。

その時、富太郎は東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチ
に標本と図を送っていると言われています。

富太郎は天性の描画力にも恵まれていて、ロシアの植物学者であるマキシモ
ヴィッチから図を絶賛する返事が届きました。

やがて1887年(明治20年)25歳で、同教室の大久保三郎や田中延次郎・染谷徳五郎ら
と共同で『植物学雑誌』を創刊。

同雑誌には澤田駒次郎や白井光太郎、三好学らも参加しています。

同年には、育ててくれた祖母・浪子が死去

翌年、富太郎は26歳で以前から構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で
始めました。

工場に出向いて印刷技術を学び、絵は富太郎自身が描いていたのです。

これは当時の日本には存在しなかった、日本の植物誌であり、現在の植物図鑑の
先駆けと言われるものです。

そして、以前から音信のあったマキシモヴィッチからも高く評価されました。

この時期、富太郎は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していきますが、
研究費を湯水の如く使ったこともあり、実家の経営も傾いていきました

 

主人公の槙野万太郎モデルの牧野富太郎は植物学で実家を破産させた?噂について

東京大学に呼び戻され、助手として採用されたものの助手という肩書だったこともあり、給料は安く、そんな中でも植物の研究に没頭していき、研究に注ぎ込むお金は莫大だったそうです。

先ほどもご紹介しましたが、牧野富太郎さんは借金を重ね、妻の寿衛子さんは家族を養うために、苦労し貧乏生活だったそううです。

また牧野富太郎さんは実家にもしばしばお金の無心をしていました。

しかし家業の「岸屋」も不振となり富太郎への送金も相当の額だったようで、富太郎さんは家業の立て直しをしたいからと、実家に戻るように言われます。

そのころ、実家の家業は祖母が亡くなり、番頭と従妹で実は富太郎さんと結婚していた・妻だと言われている牧野猶さんが切り盛りしていたそうです。

ちなみに、祖母の死により牧野猶さんとの結婚は自然と離婚となり、そのあとに寿衛子さんとご結婚されたそうです。

実家に戻った富太郎さんは、立て直しが困難だと悟り、酒屋と残った財産を番頭に譲り経営を頼み、番頭に(富太郎さんの妻だった)牧野猶さんと結婚するようにお願いしたとのこと。もちろん番頭と猶さんとの結婚をすすめたのは2人が、岸屋を切り盛りしていたからだと思われます。

そして故郷と別れることになった富太郎。

富太郎さんの生涯が描かれている「花と恋して」によると、富太郎さんが実家を破産させたとははっきりと記載されていませんでした。

しかし、富太郎さんは経営が傾いていた実家に、研究のための多くのお金を送金してもらっていたことから、破産の一因になった可能性と噂されてます。。

らんまん妻モデル寿恵子!最初の妻猶と離婚後に現妻・壽衛子と出会う

富太郎、新種を発見と壽衛子との結婚

1889年(明治22年)、富太郎は27歳で新種の植物を発見

植物学雑誌』に発表し、日本で初めて新種のヤマトグサに学名を付けました。

1890年(明治23年)、28歳の時には東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の
花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を
得ました。

これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのこと
を自ら正式な学術論文で世界に報告したことにより、富太郎は世界的に名を知られるようになります。

目覚ましい活躍をしていた一方で、富太郎はその頃、恋もしていました。

それは、よく通うお菓子屋の品のある娘で、小沢壽衛子と言う名前でした。

ちなみに、若い頃の富太郎は目鼻立ちがしっかりとした男前で、成田凌さんや
氷川きよしさんに似た風貌だったようです。

そんな風貌とは裏腹に、女性に奥手だった富太郎は、印刷所の太田に相談。

すると太田が、壽衛子の母の知り合いだったこともあり、結婚話はトントン
拍子に進み、富太郎と壽衛子は1890年(明治23年)に大学至近の根岸に一家を
構え一緒に暮らし始めます

富太郎、研究の道を断たれる

しかし同年、矢田部教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられ、
研究の道を断たれてしまいました

日本植物志図篇』の刊行も6巻で中断

失意の富太郎はマキシモヴィッチを頼り、ロシアに渡って研究を続けようと
考えますが、1891年(明治24年)にマキシモヴィッチが死去したことにより、
実現はしませんでした。

一方、妻となった壽衛子は、富太郎の一番の理解者で、彼を尊敬し、研究費用を
捻出するため必死で家計をやりくりしました。

壽衛子は富太郎のことを”わがままな道楽息子“と周囲に話しながらも、たくさん
の子どもの面倒を見ながら、時には自分が料理屋を営むなど、夫である富太郎を
生涯に渡って支えていきました

結婚当初は、実家の仕送りもあり、どうにか生活出来ていた牧野家でしたが、
ある時、ぱったりと仕送りが途絶えてしまいます。

富太郎の研究や本の出版の費用を捻出してきた実家は、次第に経営が悪化し、
今にも倒産寸前

そのため富太郎は高知に戻り、実家を整理して、経営権を番頭の和之介に全て
ことにしました。

富太郎に残された財産は、米だけだったそうです。

困り果てた地元の植物の研究をしたり、西洋音楽会を開いて自ら指導し、時には
指揮者として指揮棒を振ったりしていましたが、知人らの助力により、駒場の
農科大学(現:東大農学部)にて研究を続けることが出来るようになり、帰京

富太郎、東京帝国大学理科大学に戻る

富太郎が31歳になった1893年(明治26年)で、矢田部退任後の東京帝国大学理科
大学の主任教授となった松村に呼び戻される形で助手となりましたが、その時には
生家は完全に没落していました。

富太郎は助手の月給で一家を養っていましたが、文献購入費などの研究に必要な
資金には事欠いていました。

それでも、研究のために必要と思った書籍は非常に高価な物でも全て購入して
いたため、多額の借金を作りついには家賃が払えず、家財道具一切を競売に
かけられたこともあるようです。

その後、各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していきます。

しかし、学歴が無いことや、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、
参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢
もあり厚遇はされませんでした。

松村とは植物の命名などを巡って対立もしているようです。

1900年(明治33年)からは、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく
大日本植物志』を刊行しました。

今回は自費ではなく帝国大学から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社で
あった丸善から刊行されましたが、これも松村の妨害により、4巻で中断。

1926年(大正15年)には津村順天堂(現:ツムラ)の協力を得て、個人で『植物研究
雑誌』を創刊しましたが、3号で休刊となりました。

しかし、それ以降、津村の協力により編集委員制で現在も刊行されています。

そして、1912年(大正元年)から1939年(昭和14年)まで、富太郎は50歳から
77歳まで東京帝国大学理科大学講師を勤めました。

この間、学歴を持たず、権威を理解しない富太郎に対し、学内から何度も圧力が
ありましたが、結局富太郎は帝大に必要な人材とされ、助手時代から計47年間、
大学に留任しています。

1927年4月(昭和2年)、65歳で東京帝国大学から理学博士を受けることに。

その時の論文の題は『日本植物考察(英文)』。

同年に発見した新種の笹に、翌年死去した妻・壽衛子の名をとり、”スエコザサ
と名付けました。

1937年(昭和12年)、朝日文化賞を受賞。

壽衛子が亡くなった後の富太郎は、悲しみを振り払うかのように、ますます
研究に没頭していくのでした。

晩年の富太郎

1940年(昭和15年)、東京帝国大学を退官後、78歳でついに研究の集大成である
牧野植物図鑑』を出版。

植物の特徴を正確にとらえた図と、短くも的確にまとめられた文章が評判を
呼び、大ヒットしました。

この本は改訂を重ねながら現在も販売されています。

終戦後は、天皇陛下に招かれたり、ニューヨーク植物園の園長が会いにきたりと、
富太郎の功績が正しく評価されるようになりました。

しかし、1949年(明治24年)、87歳の時に健康に自信があった富太郎でしたが、
大腸カタルを患い倒れてしまいます。

何と医師から「ご臨終です」と伝えられた富太郎。

家族や友人が集まり、死後の旅路に喉が乾かないように唇をしめらせる儀式を
行っている最中に、富太郎は突然、ゴクリと喉を鳴らし息を吹き返すという逸話
があるようです。

その後、奇跡的に回復した富太郎は、再び植物採集に出掛けたり、本の執筆を
していきました。

1950年(昭和25年)、日本学士院会員に。

1951年(昭和26年)、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を
整理するために、朝比奈泰彦科学研究所
所長が中心となり「牧野博士標本保存
委員会」が組織されました。

文部省から30万円の補助金を得て翌年にかけて標本整理が行われることに。

そして、同年設立された第1回文化功労者の対象者となります。

1953年(昭和28年)、91歳で東京都名誉都民

1954年(昭和29年)、92歳の頃から病気がちになり、富太郎は病で寝込むことが
多くなりました。

1956年(昭和31年)、『植物学九十年』・『牧野富太郎自叙』を刊行。

同年12月、郷里の高知県佐川町の名誉町民に選ばれます。

また、高知県に牧野植物園が設立されることが決定されました。


(引用元:https://twitter.com/makinoteienJP/status/1544490634429362178/photo/1)

1957年(昭和32年)、牧野富太郎は享年96(満94歳没)で死去

没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章文化勲章を追贈されました。

墓所は東京都台東区谷中の天王寺にありますが、郷里の佐川町にも分骨されています。

1958年(昭和33年)4月、高知県高知市五台山に高知県立牧野植物園が開園。

 

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らんまん 実在モデル・牧野富太郎の若い時のイケメン画像

朝ドラ らんまんの実在モデル・牧野富太郎が若い時の写真がとてもイケメンだと
話題になっています。

気になったため、探してみたところ、本当にイケメンでした。

牧野富太郎さんのイケメン画像はこちら


(引用元:https://twitter.com/merveilles1978/status/1488809875136446467/photo/2)

俳優の成田凌さんに似ているという声も多数挙がっているようです。

らんまん 実在モデル・牧野富太郎 生涯年表一覧

1862年(文久2年)、土佐国佐川村で牧野成太郎(後の富太郎)が生まれる。

1868年(明治元年)、祖父が亡くなったのを機に「富太郎」に改名。

1873年(明治6年)、名教館に入学。

1874年(明治7年)、学制改革により名教館から「佐川小学校」へ→富太郎は2年で
自主退学へ。

1877年(明治10年)、15歳の時に佐川小学校の臨時教員になる。

1881年(明治14年)、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入のため初上京

1884年(明治17年)、22歳の時に再び上京し、帝国大学理科大学で文献・資料など
の使用を許可され研究に没頭。

1887年(明治20年)、25歳で同教室の大久保三郎や田中延次郎・染谷徳五郎らと
共同で『植物学雑誌』を創刊。

1888年(明治21年)、26歳の時に『日本植物志図篇』の刊行を自費で始める。

1890年(明治23年)、28歳の時に東京の小岩で、”ムジナモ“を日本で新発見し、
正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。

同年、小澤壽衛子さんと結婚

同年、矢田部教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられ、
研究の道を断たれる。

1893年(明治26年)、31歳で、東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村に
呼び戻される形で助手になる。

1900年(明治33年)、『大日本植物志』を刊行。

1912年(大正元年)から1939年(昭和14年)まで、東京帝国大学理科大学講師を勤める。

1927年(昭和2年)4月、65歳で東京帝国大学から理学博士を受ける

1937年(昭和12年)、朝日文化賞を受賞。

1940年(昭和15年)、東京帝国大学を退官後、78歳で研究の集大成『牧野日本植物
図鑑』を刊行。

1949年(昭和24年)、大腸カタルで一旦危篤状態となるも回復。

1950年(昭和25年)、日本学士院会員に。

1951年(昭和26年)、『牧野博士標本保存委員会』が組織。

1953年(昭和28年)、91歳で東京都名誉都民

1956年(昭和31年)、『植物学九十年』・『牧野富太郎自叙伝』を刊行。

同年12月、郷里の高知県佐川町の名誉町民に。

1957年(昭和32年)、死去
享年96(満94歳没)。
没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を追贈された。

1958年(昭和33年)4月、高知県高知市五台山に高知県立牧野植物園が開園。

 

らんまん牧野富太郎 命名した植物一覧はこんな植物もムジナモ

 

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ここまでが、朝ドラ らんまんの実在モデル・牧野富太郎 年表一覧とイケメン
画像についての紹介でした。

牧野富太郎の人生は今までの主人公と同様、波乱万丈な人生でしたね。

ただ、祖母の浪子は富太郎を跡取りとしたいと考えていたはずなのに、富太郎の
やりたいこと(=植物研究)を応援してあげたのは、新種を孫思いの素敵な祖母
だと思いました。

彼女あっての富太郎の功績でしょう。

雑草という名前の草はない」と、亡くなる間際まで、植物を愛し続けた富太郎。

メガネをかけたお洒落なおじいさんのイメージしかなかった牧野富太郎を神木
隆之介さんが演じるのは、少し違和感がありましたが、若かりし頃の富太郎は
とてもイケメンで驚きました。

神木隆之介さんが演じるのも納得です。

神木隆之介さんが演じる槙野万太郎がどんな人生を送っていくのか、4月から
楽しみに見たいと思います。


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