わろてんか実在モデル藤岡てんの「吉本せい」さんの誕生から奉公、吉兵衛と結婚,子供について、寄席の経営まで前半内容をお届けします。長めなので前半・後半に分けてまとめました。
朝ドラわろてんかのヒロイン藤岡てんの実在モデルである
吉本せいの生涯についての詳細1として、せいの誕生、奉公に出される、
吉兵衛と結婚・家業の廃業、二男六女の子供授かる、
寄席をはじめる、経営の工夫・女性らしさの発揮について分けて
まとめたいと思います。
目次
まずは、わろてんかのヒロイン 藤岡てんの実在モデルである
吉本せいの生涯 詳細1 せいの誕生です。
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10月から始まる朝ドラ『わろてんか』のヒロイン 藤岡てんの
実在モデルである吉本せいは、明治22年(1889年)12月5日に
大阪で米穀商を営む林豊次郎とちよの間に三女として産まれました。
せいの両親である豊次郎とちよは、五男七女に恵まれ、
せいには11人の兄弟姉妹がいました。
11人の兄弟姉妹の中で、三男の正之助と四男の弘高の2人のせいの弟は、
後にせいの家業を手伝い、せいが亡くなった後は、2人とも
吉本興業の社長を務めました。
ここまでが、吉本せいの誕生で、
次に、吉本せいの生涯 詳細1 奉公に出されるです。
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せいの実家は決して裕福と言える生活ではありませんでしたが、
実直な性格の父の経営により取引先からの信頼は厚い米穀商で
せいは生まれ育ちました。
せいは、学業成績が優秀でしたが、実家は裕福ではなかったため、
進学は断念します。
尋常小学校を卒業後、大阪船場の商店へ奉公に出されました。
奉公先の家柄に上手く馴染めず、苦労が多かったせいでしたが、
無駄なお金は一切使わないという大阪商人の考え方の基礎を
せいは、奉公時代に自分のものにしたのでした。
ここまでが奉公に出されるの内容で、
次は、吉本せいの生涯1 吉兵衛と結婚・家業の廃業
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明治40年(1907年)12月。
せいと吉本吉兵衛は結婚しましたが2人が入籍したのは、
それから2年半ほどが経過した昭和43年(1910年)の4月のことでした。
大阪の荒物問屋「箸吉」の二男として産まれた吉兵衛は、
幼名を吉治郎と言いましたが、せいと入籍した翌年の昭和44年(1911年)に
代々伝わる当主の名である「吉兵衛」を襲名しました。
一方、せいが吉兵衛に嫁いだ頃、婚家の家業である「箸吉」は
経営が難航していました。
そんな大変な時期に吉兵衛はその現実から逃げるかのように、
芸人遊びに夢中になり、借金取りへの対応は嫁いだばかりのせいが
していました。
また、吉兵衛の継母であり、せいにとっては姑になるユキからも
苛烈なイビリを受けていたと記録に残されているようです。
そして、本町橋詰にあった「箸吉」は市電が通ることとなり、
立ち退きを求められました。
そんな吉本家は、大阪城の近くに引っ越し、これを機会に家業の
「箸吉」を明治42年(1909年に)廃業しました。
家業が廃業したことで、収入が途絶えてしまいましたが、
夫の吉兵衛は現実逃避からますます芸人遊びに耽る中、
吉本家を支えたのは、せいの働きでした。
針仕事などの内職を連日毎晩のように行い、それでも足りない収入を
補うために寄席の客の案内や食事の世話をするお茶子を始めました。
このお茶子の仕事がせいと寄席経営の世界との出会いとなりました。
ここまでが、吉兵衛と結婚・家業の廃業の内容で、
次は、吉本せいの生涯 詳細1 二男六女の子どもを授かるです。
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「箸吉」が廃業した翌年の明治43年(1910年)に、せいは吉兵衛との間に
長女が誕生します。
その後、せいは吉兵衛との間に二男六女の8人の子どもに恵まれますが、
そのうち一男四女の5人の子ども達はいずれも10歳までに亡くなりました。
また、せいが溺愛していた二男の泰典も20代という若さで
亡くなってしまいます。
以下は、せいと吉兵衛の間に産まれた子ども達の生年月日をまとめたものです。
貴代子 明治43年(1910年) 11月6日 10歳で死亡
千代子 明治44年(1911年) 11月7日 生後10日で死亡
峯子 大正 3年(1914年) 1月14日
吉子 大正 4年(1915年) 4月12日 1歳になる直前で死亡
泰之助 大正 5年(1916年) 12月1日 1歳で死亡
幸子 大正 9年(1920年) 9月3日
邦子 大正11年(1922年) 7月6日
泰典 大正12年(1923年) 10月26日
昭和18年に穎右と改名、昭和22年(1947年) 24歳で死亡
ここまでが二男六女の子どもを授かるの内容で、
次は、吉本せいの生涯 詳細1 寄席をはじめるになります。
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吉本家の家業であった「箸吉」が廃業してしまい、一家を支える立場に
ならなくてはいけなくなったせいでしたが、内職やお茶子の仕事だけでは
家族を養うことはできませんでした。
そんな中、せいは芸人遊びに夢中の夫である吉兵衛に、それほど芸事が好きなら
自分で寄席を始めたらどうかと提案します。
その後のせいの行動は迅速で、「箸吉」が廃業した3年後の
明治45年(1912年)4月に、せいは大阪天満宮近くにあった寄席小屋である
第二文藝館の経営権を買収します。
買収のためのお金はせいが、自分の実家なや頭を下げるなどして
集めたようです。
それから翌年の大正2年(1913年)1月。
せいと吉兵衛は買収した第二文藝館に「吉本興行部」の看板を掲げ、
寄席興行を開席します。
これが、「吉本興業」発足の瞬間となりました。
ここまでが寄席をはじめるの内容で、
最後は、吉本せいの生涯 詳細1 経営の工夫・女性らしさの発揮です。
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せいと吉兵衛が買収した第二文藝館は、当時の大阪繁華街にありましたが、
「端席」と呼ばれる小さな寄席でした。
当時、15銭の入場料が相場とされた寄席の世界で、小規模かつ格の低い
第二文藝館は相場の3分の1である5銭しか入場料を取ることはできませんでした。
入場料を高くすることはできませんが、冷やし飴などの飲み物を
寄席の客だけでなく、寄席の前を通る通行人にも販売したり、
寄席の客には、のどが乾くような菓子を売ることで飲み物の売上を伸ばしたりと、
せいは商才を発揮し、寄席経営を切り盛りしていきました。
また、ほとんどの興行主は1つの寄席だけで経営をしていましたが、
せいと吉兵衛は利益の再投資を積極的に行い、第二文藝館を買収した
2年後の大正3年(1914年)には、福島の竜寅館、続いて天神橋五丁目の都座、
松島の芦辺館も買収しました。
複数の寄席を経営することで、せいと吉兵衛は芸人の世界への影響力を
高めていきました。
一方でせいは、女性らしさも発揮し、芸人達の心をうまく
掴むことに成功します。
当時、「席亭」と呼ばれた寄席の経営者は、芸人達にとって、
自分の今後を握る存在として恐るべきものでした。
万が一、「席亭」を怒らせてしまうようなことがあれば、
芸人達は一夜で仕事を失ってしまうため、芸人達は「席亭」の顔色を
常に伺いながら接しなければいけませんでした。
そんな中、せいは女性ならではのやわらかさで芸人達に慕われ、
せいのことを母親かのように慕う芸人達は次第にせいに
忠誠を誓うようになっていきました。
せいは女性らしさを接客でも発揮します。
寄席の間に、客から預かった下駄や靴をせいは綺麗に磨きあげる
サービスをしていました。
その細やかなサービスは客の心を掴み、せいの良い評判が
広く知れわたるようになるのでした。
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ここまでが、朝ドラわろてんかのヒロイン藤岡てんの
実在モデルである吉本せいの生涯についての詳細1として、
せいの誕生、奉公に出される、吉兵衛と結婚・家業の廃業、二男六女の子供授かる、
寄席をはじめる、
経営の工夫・女性らしさの発揮について分けたまとめでした。
吉本せいの生涯 詳細1でまとめたように、吉本せいは
吉兵衛と結婚後、大変な苦労をしていたと思われます。
嫁いだばかりの頃に、吉兵衛の家業の経営が苦しくなり、
吉兵衛は現実逃避で芸人遊びに夢中になるなど、あり得ないなと
私は感じました。
しかも、家業が廃業してからそれほど経たずに長女が産まれていることから、
せいは妊娠中も内職やお茶子をしたりしていたと考えられ、
夫は遊んでいる中、よく堪えていたなと驚きました。
また、吉本興行部を作ったあと、せいの寄席の経営の工夫に、
なるほどと思わせられました。
寄席の客にのどが乾くような菓子を売ることで飲み物の販売促進に
繋げるとは凄い経営手腕です。
一方で、女性らしさを発揮することで、芸人達に慕われたり、
細やかなサービスで高評価されるなど、せいは優しく気が利いた人物だったことが
伺えます。
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