今回は『ブギウギ』で水上恒司さん演じる村上愛助のモデルである、吉本興業の御曹司・吉本穎右さんはなぜ若くして亡くなったのか、死因や結婚、妊娠、子供出産までについて解説。
そこには吉本穎右さんの最愛の人、スズ子のモデルとなってる笠置シヅ子さんとの悲恋がありました。
2人の出会いから吉本穎右さんとの死別後、笠置シヅ子さんはどんな人生を送ったのかについても紹介していきますね。
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目次
ブギウギ村山愛助のモデル・吉本穎右の死因は肺結核だった!
吉本穎右さんは1946年(昭和21年)5月19日に肺結核で亡くなりました。
享年24歳という若さでした。
吉本穎右さんの子供を妊娠中だった笠置シヅ子さんは、吉本穎右さんの危篤の知らせを聞いて向かおうと穎右さんの弟・正之助さんが会えるよう手配していました。
ですが吉本穎右さんは笠木シヅ子さんの身重の体を気遣い「来るに及ばない」と言い、面会を断ったため、笠置シヅ子さんが穎右さんの臨終に立ち会うことは叶いませんでした。
吉本穎右さんは子供が男の子なら「穎造」女の子なら「エイ子」と名付けることと、子供のために預金を残し他界しました。
感染することを懸念して、吉本穎右さんはあえて笠木シヅ子さんに会わないまま亡くなったため、穎右さんの死は笠置シヅ子さんにとって大きな悲しみとなってしまったのです。
村山愛助のモデル・吉本穎右と笠置シヅ子との恋出会い,結婚,妊娠,子供まで
村上愛助のモデル・吉本穎右とは?
『ブギウギ』で水上恒司さんが演じる村上愛助のモデルは、吉本興業の創業者・吉本泰三・せいさん夫妻の次男・穎右(えいすけ)さんです。
1923年(大正12年)10月26日に生まれました。
穎右さんは次男でしたが父親の泰三さんは1924年2月13日に39歳で亡くなり、長男も穎右さんが生まれる前に亡くなっていたため事実上の吉本興業の後継者でした。
泰三さんの実家は高級料亭に箸を納める荒物問屋「箸吉」を経営。
吉本泰三・せいさん夫妻は1912年(明治45年)から寄席経営を始め、吉本興行部が設立されたのは穎右さんが誕生してから10年ほど経ってからでした。
ブギの女王・笠置シヅ子さんの最愛の人で、籍は母親・せいさんの反対で入れておらず事実婚状態だったそうです。
次に、吉本穎右さんと笠置シヅ子さんの出会いから死別までの馴れ初めを紹介していきますね。
出会い
笠置シヅ子さんと吉本穎右さんは1943年(昭和18年)6月、名古屋の御園座で出会いました。
笠置シヅ子さんは知人が御園座で公演をしていたので楽屋に挨拶しに行ったところ、当時早稲田大学の学生で大阪へ帰省途中に名古屋に立ち寄った穎右さんと対面。
芸能界の情報に精通していた穎右さんは、戦前から「スイングの女王」として活躍していた笠置シヅ子さんの大ファンだったそうです。
ですがまだこの時2人は、言葉を交わすことはありませんでした。
笠置シヅ子さんは戦争が始まってからジャズが敵性音楽となったため、慰問に呼ばれず地方巡業で名古屋に来ていました。
笠置シヅ子さんは穎右さんの印象について「美青年で心優しく、性別問わず差別しない人」と語っています。
穎右さんは翌日、和歌山に行く予定があり、笠置シヅ子さんも神戸で仕事があったため2人は一緒に汽車に乗ることを約束。
駅に着くと穎右さんは笠置シヅ子さんの席を事前にとってあり、荷物も運んでくれました。
汽車の中ですっかり意気投合したようで、笠置シヅ子さんは穎右さんの人柄を気に入り惹かれていったそうです。
恋に発展
笠置シヅ子さんは穎右さんに好意を寄せていましたが、穎右さんが吉本興業の御曹司であること、年齢が9歳差というのが弊害となり恋愛対象ではなく弟のように接していました。
ですが、お互いの家を行き来するうちに惹かれ合い、恋へと発展します。
出会いから1年後の1944年(昭和19年)には、お互い結婚を意識するようになっていました。
そして1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で、お互い自宅が焼失したのをキッカケに吉本興業から借家を斡旋してもらい、同棲を開始したのです。
同棲は2人きりということはなく、他にも同居人がいました。
穎右さんは笠置シヅ子さんのために舞台用具を持って送迎したり、身の回りの世話などもしていたそうです。
結婚準備と妊娠
1945年(昭和20年)に終戦を迎えると、穎右さんは1946年に叔父・林弘高さんが吉本興業から分離した吉本株式会社(東京吉本)に入社するため大学を中退します。
同時期に笠置シヅ子さんとの同棲も解消するのですが、これは結婚に向けて踏み出すためです。
穎右さんは叔父・林弘高さんに笠置シヅ子さんとの関係を知られてしまったため、学生結婚するわけにもいかず、未入籍のまま一緒に暮らすのも都合が悪いと思ったのかもしれません。
穎右さんは大学中退と同時に吉本株式会社(東京吉本)に入社。
一旦、結婚するまで一緒に暮らすのを控えておこうという考えだったようです。
叔父・林弘高さんのもとで働いていた穎右さんでしたが、母親のせいさんが体調を崩し穎右さんが戻ってくることを望んでいました。
さらに穎右さん自身も体が丈夫な方ではなく、社会人になり夜の付き合いも増えたことで笠置シヅ子さんから健康を心配されます。
1947年に穎右さんは大阪の吉本興業に戻っていきました。
その3ヶ月後に笠置シヅ子さんは、穎右さんの子を身籠っていることに気づいたのです。
死別
笠置シヅ子さんは1947年(昭和22年)に、服部良一さんの発案で開催した『ジャズ・カルメン』の舞台終了後、穎右さんと結婚するつもりで芸能界引退も考えていました。
結婚準備のために自宅を購入して家具を揃えますが、穎右さんからの連絡が途切れ途切れになります。
やっと届いた吉本興業の社員からの手紙には、大阪に戻ってからの多忙で無理がたたり風邪で寝込んでいると知らされます。
さらに穎右さんの容態が悪化の一途を辿っていると書いてあったため、笠置シヅ子さんは大阪に向かおうとするも臨月であったこともあり、周囲は反対して思い留まるしかありませんでした。
穎右さんの弟や叔父は、笠置シヅ子さんを何とか穎右さんに会わせてあげようと船を手配しましたが、妊娠中の笠置シヅ子さんを気遣い穎右さんは面会を断りました。
その後、笠置シヅ子さんのもとに穎右さんの危篤が伝えられ、翌日の5月19日に穎右さんは24歳という若さで亡くなったのです。
穎右さんと死別後の笠置シヅ子さんの人生
最愛の人・穎右さんの死後、半月ほど経ってから笠置シヅ子さんは3150gの女児を出産。
穎右さんの遺言通り、その子には「エイ子」と名付けられ、笠置シヅ子さんはエイ子さんを育てるために芸能界の復帰を決意します。
出産から3ヶ月の1947年(昭和22年)に『東京ブギ(翌年に東京ブギウギに改名)』をレコーディングして翌年の1月にリリースしました。
『東京ブギウギ』は発売されるがいなや爆発的大ヒットし、日本劇場で舞台『東京ブギウギ』が開催されると連日満員御礼だったそうです。
笠置シヅ子さんは穎右さんの忘れ形見である娘・エイ子さんを大切に育て、未婚の母として生涯を貫きました。
笠置シヅ子さんにとって穎右さんとの恋が最初で最後の恋だったのですね。
◆水上こうしさんの詳しいプロフィールはこちら⇓⇓
◆ネタバレあらすじトップページ⇓⇓
⇒ブギウギ朝ドラネタバレあらすじ最終回マデ来週,今後の結婚相手/死
ブギウギ愛助モデルまとめ
『ブギウギ』で水上恒司さん演じる村上愛助のモデルとなった吉本興業の御曹司・吉本穎右さんの死因について紹介してきました。
実際は肺結核という人に感染する病であったばかりに、穎右さんは臨終の際も最愛の人に会えずに亡くなるという悲しく切ない最期でした。
悲しい恋を経て、鈴子がどう成長していくのかもドラマでは楽しみですね。
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