まんぷく モデル 塩作りの内容です。
10月から放送が始まったまんぷくは、現在、萬平と福子が14人の若者を雇って、
泉大津で塩作りをしています。
そこで今回は、萬平の実在モデルである安藤百福さんも塩作りをしていたのか、
そして塩作りをしていたならどんな展開になったのかを紹介します。
では、まんぷくで萬平がしている塩作りのモデルについて紹介します。
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萬平の実在モデルである安藤百福さんも、泉大津で塩作りを発案し、戦争が
終わり、街に溢れている失業中の若者に仕事を与えるために、多くの若者達を
塩田の社員として雇いました。
若者達の名前などは、今では残っていませんが、床屋や料理人、大工など様々な
職業を戦前はしていた若者達が集まっていたようです。
百福さんの塩作りを手伝っていた若者達は当初、20名程でしたが、戦後で
食糧難の時代に衣食住の世話は勿論、お小遣いももらえたことから、噂を聞いて
その後も次々と若者達が集まり、最終的には100名超えの大所帯となりました。
若者達の世話は、福子のモデルである仁子さんと、鈴のモデルである須磨さんが
していて、タカのモデルである有元冨巨代さんも泉大津にやって来て、2人を
手伝っていました。
社員の数が100名を超えた頃には、3人だけではとても手が回らないため、
近所から何人もの人にお手伝いに来てもらっていたようです。
仁子さんと須磨さんは、若者達のお母さん代りの様な存在だったらしく、
恋愛相談などにも乗っていたということです。
塩田の塩は、鉄板の錆により黄色がかっていて、あまり売上にはならなかったので、
百福さん達の生活は、基本的に自給自足でした。
百福さんは若者達に漁船を2隻買い与え、沖合いでカレイやアジなどを捕って
食べていました。
また、仁子さんはアルコールを作ることができたので、それにカラメルで色を
つけて、ウイスキーの様な飲み物を作り、若者達に飲ませていました。
百福さんや仁子さんにとって、彼らとの生活は解放感があり、非常に満足していた
もののようでしたが、一部の若者が街で喧嘩騒ぎを起こしたことを機に、
警察に監視されるようになってしまいます。
百福さんは私利私欲のために塩作りをしているわけではないため、当時の内務省の
高官に、警察の監視をやめさせるように頼みましたが、この様な抗議はかえって
警察の心証を悪くしてしまいました。
そして、昭和23年(1948年)のクリスマスの夜。
大阪軍政部長の送別会をしていた場所に、2人の憲兵がやって来て、百福さんを
逮捕してしまいます。
百福さんの容疑は脱税で、若者達に渡していたお小遣いが、所得とみなされ、
事業主でありながら所得税を納めていなかったとして、百福さんは逮捕されたのです。
まんぷくの物語とは違い、百福さんの製塩事業は採算性がなく、ほとんど百福さんの
持ち出しで成立していた事業でした。
そのため、百福さんは猛抗議をしましたが、たった1週間の裁判で百福さんは
有罪となり、重労働4年の判決が下され、巣鴨プリズンに収容されてしまいます。
また、大阪鉄道局から無償貸与されていた塩田施設も没収されてしまい、およそ
2年間に及ぶ製塩事業は幕切れとなってしまうのでした。
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ここまでが、まんぷくで萬平がしている塩作りのモデルについての紹介でした。
史実でも塩作りをやっていたんですね。
しかし、まんぷくとは違い、安藤百福さんは在日台湾人だったことか、戦勝国民
として多額のお金を戦後にもらっていた
ことから、製塩事業は安藤百福さんの
お金でほとんど賄われ、採算性のないものだったようです。
完璧な塩作りを目指して軌道に乗ってきた、たちばな塩業とは異なるようですね。
ただ、皆で住み込みで仕事をしたり、鉄板から塩を作ったりというのは、モデル
となっていると思います。
ネタバレになりますが、今後、萬平は脱税容疑でも捕まることになりますが、
それも安藤百福さんの脱税容疑で逮捕されたのがモデルとなっているのでしょう。
実際に、安藤百福さんも鉄板から塩を作っていたのには驚きましたが、それが
インスタントラーメンという今までにありそうでなかった物を開発した百福さんの
着想なんだと思いました。
まんぷく最終回結末ネタバレ福子と萬平の死!94才で実在モデルより
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