2019年のNHK大河ドラマは『いだてん』です。
“いだてん(韋駄天)”は仏法の守護神で仏舎利を盗んだものを追いかけて取り返したほど走るのが早い神とされます。
この事から足の速い人のたとえとして用いられる様になっています。
今回はいだてん第18話のネタバレあらすじを紹介します。
<いだてん18話あらすじネタバレ>
孝蔵は、小円朝とのドサ回りから東京に戻り、久しぶりに清さんと顔を合わせますが、清さんから徳重と云うヤクザから追われているので、しばらく身を隠すように言われます。
清さんも知らない内に、小梅は徳重に金で買われて囲われていたのです。
しかし、浮気っぽい小梅は、何かあるとすぐに他の男と逃げてしまことがあり、今回も同じことが起こっていたのです。
相手の男をかばって小梅は、ドサ回りの旅先まで追いかける事はしないだろうと、孝蔵の名前を出してしまっていたのです。
一方、小梅は美川を連れて四三の下宿を訪ねてきて、小梅の浮気相手が美川である事情を話し、美川を匿って欲しいと頼みます。
小梅が帰っていった後、四三は美川に自分はほとんど居ないので部屋を好きに使っていいと話します。
実際、四三は東海道五十三次駅伝の後も、”極東選手権”、”富士登山競争”などで、日本中を駆けまわっていたのです。
シマも通う東京女子高等師範学校では英国帰りのトクヨは体育を教えるためにが、女子たちに播磨屋で仕立てさせた”チェニック”を与えていました。
チェニックは動きやすいと生徒たちに好評でしたが、ブルマをはかせて運動させていた永井と服装も授業内容も意見が合いません。
英国でさまざまな理論や学問を学んだトクヨは、軍隊的な永井の考え方が時代遅れと言い放ちます。
その頃、播磨屋ではスヤがチェニックを着て、すごく楽で妊婦にもいいと満足げに言うのを聞いた初耳の辛作は驚くのでした。
スヤはそんな辛作に、四三が妊娠のことを伝えていないのは何か理由があるかも知れないので知らない事にしておくことを頼みます。
それでも身重の妻を放って出かけている四三に対して釈然としない辛作でしたが、スヤはもうすぐ帰ってくるでしょうと言います。
そこに美川が割って入ってきて、四三は東京と下関間1200キロメートル走破の練習と『ランニング』の出版記念講演で多忙で、すぐには帰ってこないと言います。
それを聞いてスヤは、四三は自分たちの結婚のことを辛作にしか話していないし、自分とお腹の子供はどうなるのかと、ため込んでいた不満を爆発させます。
そんなスヤに美川は帳面の束を見せます。
それは、四三の日記で、それを、勝手に読んでいた美川はスヤとの結婚の事も妊娠の事も知っていたと言います。
スヤは迷いますが日記を読み始めます。
そこには、オリンピックで金メダルをとった祝勝会で、四三がドレスを着たスヤを紹介し皆から祝福される夢をみたことが書いてあり、この夢をスヤと生まれてくる子供のために叶えると記してありました。
夜になって、スヤと入れ替わる様に四三が帰ってきます。
辛作から、スヤがたった今帰った事を聞いた四三は、スヤが乗った市電を追い抜いて次の停留所で乗り込み、安産のお守りを手渡します。
泊らないかと言われたスヤでしたが、そのまま熊本に帰ります。
まもなく、スヤは無事に男の子を出産し、四三はその子を「正明」と名付けました。
そして、その夏には秋葉とともに四三は、下関と東京間を20日間で走破するのでした。
清さんは飲み屋で孝蔵と会って、話はついたものの直ぐに孝蔵が寄席にでていたので徳重の面目が丸潰れになるので、ほとぼりが冷めるまで東京を離れろと伝えます。
突然、清さんが孝蔵を店の外に追い出し走れと叫びます。
店に現れた徳重を清さんは身体を張って押しとどめていてくれたのです。
四三は下宿にきた野口、美川、秋葉を前にして、新たなレースの構想を語ります。
それは、日光から東京までの130キロメートルを、濁協中学徒歩部は10区間で3チーム、高等師範は5区間で1チーム、四三はひとりで走りぬくと云う、マラソン対駅伝の変則的なレース構想でした。
四三がひとりで走るのは無謀だと言われるが、人間の持久力の限界に挑戦したいと言い切ります。
そこに、辛作が新しい足袋を持って現れます。
渡された足袋は、以前から四三が頼むものの辛作が足袋じゃなくなると頑なに拒絶していた底がゴムになったものでした。
辛作は、四三に根負けして作ってくれたのでした。
改造版の足袋を履いて”マラソン対駅伝”に臨んだ四三でしたが、結果は駅伝チームの勝利となります。
しかし、辛作は四三に向かって「勝ったぞ‼勝ったぞ‼あんたは負けたが俺は勝った‼」と喜び叫びます。
辛作の足袋のゴム底は、130キロメートルの道のりにも耐え抜いて破れていなかったのです。
体協には、クーベルタンから出された治五郎宛ての五輪マークのついた封書が届きました。
治五郎が開封してみると、そこには1920年(大正9年)夏に、8年ぶりにオリンピックを開催する事が書かれていました。
「韋駄天を呼べ‼韋駄天を‼」
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