いだてん21話と22話あらすじとネタバレ四三女子スポーツ普及へ

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2019年のNHK大河ドラマは『いだてん』です。今回は21話と22話を実在モデルの話も含めて載せていきます。

 

“いだてん(韋駄天)”は仏法の守護神で仏舎利を盗んだものを追いかけて取り返したほど走るのが早い神とされます。

 

この事から足の速い人のたとえとして用いられる様になっています。

 

2019年1月現在では全編の20話までのあらすじはNHKよりオフィシャルで公開されていますが、後編のあらすじ公開は5月ごろの予定となっています。

 

今回は、21話と22話あたりの展開がどうなるのかを予想してみたいと思います。

 

<いだてん21話と22話のあらすじ予想>

四三は女学校スポーツ普及へ

四三は、ヨーロッパを後にして日本へ戻る旅路のなかで、今回のアントワープオリンピックの事を走馬灯のように思い出します。

 

マラソン本番までの練習は、ストックホルムと異なり、茂木、八島、三浦の4人は励まし合い注意しあい現地に慣れるための練習できたこと。

 

友達から激励の手紙をもらったが、そこには饅頭しか食べない四三と一緒に遠征にでると腹がへって困るとチームメイトがこぼしていたと書かれていて、他のものも食べろと忠告を受けたこと。

 

何より練習中に足を痛めてしまい、本番のレースで最後の追い上げで力を出し切れなかったこと。

 

そして、多くの期待を裏切ってしまった失意の中で故郷の母親に手紙を書いたこと。

 

「雨ふり寒く皆くるしみました。わたしもよく走りましたが練習中に足を痛め、一時6位にまで走ったが追い抜かれ16位になった。」

 

ストックホルムでの雪辱を誓って、やれることは全てやりつくしてレースに臨んだ2回目のオリンピックマラソンへの挑戦は、完走したものの自分の持つ世界記録に遠く及ばない受け入れがたいものでした。

 

四三は、魂が抜けたように行くあてもなくアントワープを離れますが、足は日本を向きません。

 

優勝を期待され本人も優勝する事だけを考えてきた傷心の四三は、ふと気が付けば自分の全盛時期でのオリンピック挑戦ができなかったベルリンを目指していました。

 

ヨーロッパでは、1900年のオリンピックパリ大会から女性参加が認められていることもあって、四三がベルリンに向かうために彷徨っている途中で、女子スポーツが盛んにおこなわれている光景を幾度も見かけ、少しずつ自分の中で何かが動き始めたのを感じていました。

 

ベルリンのスタジアム近くで、ひとりで槍投げの練習をしているドイツ人女性を見ている内に、四三の頭にはシマが弥彦から言われた「いずれ日本も西洋のように女子スポーツが盛んになりかも知れない」と云う文言が浮かんできたのでした。

 

日本に戻った四三は、さっそく自らも女子スポーツの発展に努めようと新しい目標を定めます。

 

将来母となる女性の心身を鍛えることは、日本国家として大切なことだと唱えるのです。

 

1921年(大正10年)、四三はトクヨが教鞭をとりシマが学ぶ東京女子師範学校の教壇に立ちながら自らの想いを実現する道を選びます。

 

その頃から高等女学校の生徒たちがテニスや水泳を行うようになった事もあり、四三はその年に早くも初めての女子のテニス大会である女子連合競技大会を開催します。

 

そして、1923年(大正12年)には、関東女子体育連盟を結成するのでした。

 

また、四三は地理の教師をする傍らで、機会を見つけては全国の学校をまわって学生たちと一緒に走りってスポーツの重要性を説いてまわったり、競技会や運動会に参加したりしてマラソンの普及に努めたのでした。

 

四三の尽力もあり、その頃から女学校間で対抗戦や女子の地域大会が開かれるようになり、陸上競技や水泳、 野球、テニス、 バレーボール、バスケットボールなどの種目を行う総合的な全国大会が初めて行われる様になります。

 

そして、四三らの女性スポーツ振興活動は大きな力となって、1926年(大正15年)に国際大会に日本の女性代表選手を送るための組織として「日本女子スポーツ連盟」が設置されるのです。

 

初代の会長は関西出身の木下東作で、木下は四三が手掛けた第1回箱根駅伝で選手編成を担い、レース本番の当時に三条大橋でのスタートの号砲を鳴らした人物でした。

 

また、全盛期を過ぎた四三でしたが、自らを鍛える事は決して怠らず、暑さに強くなるための房総半島の館山での鍛錬を繰り返し、心肺機能を高めるための富士山麓での高地トレーニングを続けるのでした。

 

孝蔵は改名を繰り返し真打ちへ

小円朝に助けられた孝蔵は、1916年(大正5年)に朝太から円菊に改名し、1918年(大正7年)に4代目古今亭志ん生の門下生となります。

 

その後、金原亭馬太郎と3回目の改名をしながら波乱万丈な落語の道を歩き続けるのでした。

 

そして、1921年(大正10年)に、9月に金原亭馬きんを名乗り、ついに真打に昇進するのでした。

 

1922年(大正11年)の秋、下宿屋の娘の清水りんは父親の亀次郎の勧めで見合いをすることになります。

 

しかし、見合いの相手の職業は金原亭馬太郎こと美濃部孝蔵と云う落語家だと言うのです。

 

不安に思ったので父親を連れて孝蔵を見るために寄席に出向くものの、孝蔵との正式な見合いも結婚式もないままに、りんは孝蔵と結婚することになるのでした。

内田はクロールを身につける 田畑も協力を

アントワープオリンピックで、内田正練は競泳100メートル自由形と400メートル自由形に日本古式泳法で挑みましたが、欧米の選手のクロールに予選で敗れてしまいます。

 

世界で戦うにはクロールで泳ぐしかないと確信した内田は、すぐにクロールを習得し、帰国後はクロールの普及を行うことになります。

 

アントワープオリンピックでの惨敗を聞き、茨木中学校の杉本も当時の最新研究書を読んでクロールを取り入れ始めていました。

 

早くから学校にプールを造っていた茨木中学はクロールを取り入れたこともあって大会で優勝します。

 

これに刺激され田畑政治は茨木中学を倒すために、浜名湾遊泳協会にもクロールを採用します。

 

また、日本一になるためには全国大会開催が必用と考え、1921年(大正10年)に北弁天島に、横幅30メートル、長さ100メートルの海水プールを造りあげます。

 

こうして、田畑は全国から有力選手を集めて全国大会を開催しますが、日本一の栄誉は茨木中学にさらわれてしまうのでした。

 

ここから、田畑はふたたび打倒茨木中学による日本一への挑戦を始めるのでした。

 


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