今回は『どうする家康』第27話のネタバレを解説していきます。
『どうする家康』27話は2023年7月16日に放送です。前話⇒どうする家康26話ネタバレ【武田勝頼の死・最後 甲州征伐
家康が富士遊覧(ふじゆうらん)のもてなしに上機嫌になった信長は今度は家康たちを招き宴を開きます。
27話では光秀と信長の確執が浮き彫りになり、信長や家康の本心が描かれます。
『どうする家康』27話ネタバレ
それでは『どうする家康』27話のネタバレを紹介していきましょう。
織田信長が家康を安土城に招く
1582年5月、家康は穴山信君(あなやま のぶただ)らと一緒に織田信長の居城・安土城(あづちじょう)に招かれます。
支度をしている家康のところに側室・於愛(おあい)が息子を連れてやって来ました。
家康は於愛(おあい)を寵愛しており、もしものことがあれば後のことは頼むと話します。
家康は於愛(おあい)との息子たちが、信康と同じ憂き目にあわずに生きて欲しかったのです。
家臣たちは家康を安土城(あづちじょう)に向かわせていいものか、気がかりでした。
信長が家康を味方に引き入れたのは、甲斐(かい)・武田家(たけだけ)を滅ぼすためです。
武田家(たけだけ)が滅びた今、家康を排除しようとしてもおかしくありません。
於愛(おあい)は家康に「不安なことでもあるのか」と聞きます。
家康は「ウサギはオオカミより強いと思うか?」と聞きました。
家康は瀬名の形見のウサギを持っており、瀬名の言葉を於愛(おあい)にも問いかけてみます。
於愛(おあい)は「オオカミの方が強いが、ウサギのほうがたくましいかもしれない」と答えました。
「あなたならできる」と言ってくれた瀬名の言葉がよぎり、二度と同じことは起こさせないと決意するのでした。
明智光秀の落ち度
安土城(あづちじょう)に向かった家康たちは琵琶湖(びわこ)東部に築いた要塞のような城に圧倒されます。
安土城(あづちじょう)で開かれた宴も豪華なものでした。
家康の目の前には珍しい料理が並び、味わう余裕がないほど緊張していました。
明智光秀(あけち みつひで)は、料理の説明を誇らしげに話します。
その頃、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は西国の制圧に向けて戦い、柴田勝家(しばた かついえ)は越後・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)と戦っていました。
そのため、光秀は家康の接待役を任されました。
家康は鯉料理を食べようとしますが、躊躇してしまいます。
家康の様子に、周囲も鯉の臭いをかぎ始めます。
光秀は鯉に臭いはないと言いますが、信長は食あたりになれば大変だからやめておくよう家康に言います。
光秀が「家康が高級料理に慣れていない」と言った瞬間、信長は出ていけと光秀を蹴り飛ばしました。
信長は誰であろうと失態を許さず、光秀は接待役を解任され秀吉の援軍として向かうよう言い渡されました。
信長が信じているのは己だけ
信長と家康は2人で酒を呑み、光秀の鯉料理に「本当に臭いがあったのか?」と聞きます。
利用価値のない者は手加減なく見限る信長に、家康は「信長のようにはなかなかできない」と話します。
信長は甘く見ると寝首をかかれるからダメだと言い、信じるのは己だけと言いました。
しかし、家康は松平家(まつだいらけ)の家臣・鳥居忠吉(とりい ただよし)から、教えを受けていたため考えが違います。
鳥居忠吉(とりい ただよし)は「己が相手を信じなければ、相手の信用は得られない」「裏切られるのは、その程度の器だから」と話しました。
周囲の手助けがあったからこそ、ここまでやってこれたと家康は感じていたのです。
家康の本心
家康は信長に「京都で待っています」と言い、その場を立ち去ろうとします。
信長は家康に「本心を見せなくなった」と言い、いきなり家康の胸ぐらをつかみました。
家康も腹が立ち、信長と揉み合いになります。
家康と信長は家康が織田家の人質になっていた頃、相撲をしていたときのようにお互いしっかり組み、倒れ込みます。
信長は満足げでしたが、家康は瀬名を想い心境は複雑です。
家康は妻と息子を断罪し、今まで通り信長に従うなど耐えられないと言います。
信長は感傷に浸るのはくだらないと言い、「本当に取って代わる気があるなら、自分を討て」「ウサギがオオカミを食らうんだ」と家康を挑発しました。
1582年信長は100人程度の家臣を連れて、安土城(あづちじょう)を発ちます。
信長が京都の宿所・本能寺(ほんのうじ)に着いたのと同時に、家康は和泉(いずみ)の堺(さかい)に向かいました。
まとめ
『どうする家康』27話ネタバレを紹介してきました。
1582年武田家(たけだけ)の制圧に貢献した褒美として、信長は家康や穴山信君(あなやま のぶきみ)を安土城(あづちじょう)に招きます。
安土城(あづちじょう)での宴は3日間続き、140品もの高級料理が振る舞われました。
光秀はこの宴の時に家康に腐った魚を出し、皆の前で信長に叱責されたのが原因で本能寺の変(ほんのうじのへん)につながったとされています。
しかし、光秀の失態は信長の伝記『信長伝記(のぶながこうき)』には記されていません。
『川角太閤記(かわすみたいこうき)』という豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の逸話集に記されています。
光秀が、腐った魚料理を出すという失態をすること自体考えにくいのです。
『どうする家康』では光秀の出した鯉料理が臭っていたことについて、信長は疑問を持っていました。
ではなぜ、信長は光秀を皆の前で蹴り飛ばしたのかということになります。
このあたりが今後の『どうする家康』の注目となるところですね。
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