わろてんか 松坂桃李さんが演じる北村藤吉の実在モデル:吉本吉兵衛の生涯を詳しく紹介します。芸人遊び好きな吉兵衛さんの略歴-生まれから死まで
吉本を設立していくまでの流れを一挙お伝えします。
目次
吉本吉兵衛の生涯略歴になります。
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《吉本吉兵衛の生涯略歴》
明治19年(1886年):誕生
明治40年(1907年):せいと結婚(入籍は3年後の明治43年(1910年))
明治44年(1911年):当主の「吉兵衛」を襲名するものの、家業の「箸吉」は
すでに廃業
明治45年(1912年):第二文藝館を買収し、せいと寄席経営を開始
明治46年(1913年):吉本興行部(後の吉本興業)設立
大正13年(1924年):脳溢血により死去、享年37歳
わろてんかのヒロインの夫である
北村藤吉の実在モデル 吉本吉兵衛の誕生です。
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10月から始まるNHKの朝ドラ『わろてんか』でヒロインの夫である
北村藤吉の実在モデル 吉本吉兵衛は、明治19年(1886年)4月5日に
大阪に生まれました。
吉兵衛が生まれた家は、桶やざる、箒など現在では生活雑貨と言われる
商品を卸す荒物問屋でした。
その屋号は「箸吉」。
吉兵衛はこの家の次男でした。
明治40年(1907年)12月に吉兵衛は、わろてんかのヒロインの実在モデルである
せいと結婚します。
せいと結婚したことで、その後の寄席経営に発展するとは、
この時の吉兵衛には想像さえできないことでした。
ここまでがわろてんかのヒロインの夫である北村藤吉の実在モデル
吉本吉兵衛の誕生で、
次は、芸人遊び好きになります。
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吉兵衛の芸人遊び好きは相当なものでした。
当時、芸人遊びに夢中になりすぎ、芸人に効果な贈り物をして散財する
大店の若旦那はいたようです。
しかし、吉兵衛の芸人遊び好きは度が過ぎていました。
吉兵衛は芸人遊び好きのあまり、自分の芸を人に見せたいがゆえ、
地方巡業まで行いますが、素人のためその興行を大失敗させてしまい、
家業の「箸吉」を差し押さえられたこともあるようです。
そのせいもあり、家業の「箸吉」は、吉兵衛とせいが結婚する頃には
経営難に陥り、日露戦争後の不景気も重なったことで明治42年(1909年)に
ついに廃業してしまいます。
家業が廃業してしまったにも関わらず、吉兵衛の芸人遊びは止むことを知らず、
ツケの取り立ての対応や一家を支えるための稼ぎまで、
吉兵衛はせいに任せっぱなしだったと言われています。
ここまでが芸人遊び好きの内容で、
次は、吉本設立になります。
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家業の「箸吉」が廃業して、収入がなくなってしまったにも関わらず、
吉兵衛の芸人遊び三昧の日々は一向に止む気配がありませんでした。
そんな吉兵衛を見て、居ても立ってもいられなくなった妻のせいは、
ついに吉兵衛に、そんなに芸人遊びが好きならばいっそのこと
その道楽を家業にして商売を始めたらどうかと言いました。
せいのその言葉は本気で言ったものなのか、芸人遊びに明け暮れる夫への
精一杯の皮肉だったのかはわかっていません。
しかし、「箸吉」の廃業から3年程が経った明治45年(1912年)4月。
吉兵衛とせいは、つぶれかけていた寄席の「第二文藝館」の経営権を買収し、
この寄席買収が後の吉本興業グループの発祥となるのでした。
ここまでが吉本設立の内容で、
次は、花月に改名になります。
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遊び半分の素人興行では、大失敗してしまった吉兵衛でしたが、
妻であるせいの資金繰りや丁寧な顧客対応、そして驚くような発想による
物販に支えられて、寄席に来る客は順調に増加していきました。
そして、「第二文藝館」を買収してから2年後の大正3年(1914)年には、
福島にある「竜寅館」を始めとし、小規模ではありますが、
いくつもの寄席を次々と買収し、規模を拡大していきました。
その頃、「桂派」や「三友派」と言われる上方落語会の主流派が
その時の利害に応じて和解と対立を繰り返しながら
徐々に衰退していったことも吉兵衛とせいにとって味方されました。
そして、吉兵衛とせいの寄席興行にとって特筆すべきは、
大正7年(1918年)に法善寺の裏手にある金沢席を買収したことです。
吉兵衛とせいは、それまでにいくつもの寄席を手に入れてはいましたが、
そのどれもが端席と呼ばれる格が低く小規模な寄席ばかりでした。
そのため、吉兵衛とせいは一流の寄席を手に入れることが悲願でした。
「桂派」の拠点だった金沢席の買収は、2人にとって、悲願でした。
そして、せいと吉兵衛は金沢席を「南地花月」に改名し、
他の寄席も「天満花月」、「福島花月」、「天神橋花月」、「松島花月」と
すべての寄席に「花月」をつけて改名しました。
ここまでが花月に改名の内容で、
次は吉兵衛の死になります。
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吉兵衛とせいの「花月」の躍進は、留まることを知りませんでした。
その後も吉兵衛とせいは、数々の寄席を買収し続けたため、
大阪の寄席の多くに「花月」の名前が入っていました。
一方で2人は、衰退を続けていた上方落語の主流派を次々と併合し、
ついには当時、稀代の天才落語家と謳われた桂春團治を「花月」へ
引き抜くことに成功。
花月が大阪の芸の世界を風靡し、王者としてゆるぎないポジションを
築き上げた大正13年(1924年)2月12日。
吉兵衛は脳溢血により急逝。享年は37歳でした。
ここまでが吉兵衛の死の内容で、
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感想も少し程度ですが…
わろてんかのヒロインの夫である北村藤吉の実在モデル 吉本吉兵衛は、
自由奔放な性格だと思いました。
吉兵衛だけで行った芸の素人興行は大赤字だったようですが、
吉兵衛とせいが力を合わせて始めた興行は成功を収め、
吉兵衛も驚いたのではないでしょうか。
吉兵衛はダメな夫だと思いますが、芸人遊びが好きすぎなければ、
今の吉本興業はないだろうから、お笑い界にとっては、偉大な人なのでしょう。
10月から始まるわろてんか。
藤吉のダメ夫っぷりにも注目したいです。
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