朝ドラ「ブギウギ」ヒロイン花田鈴子のモデルは誰か?モデルの笠置シヅ子の生涯や経歴、養子の過去や結婚相手の死まで!の内容です。
『ブギウギ』は、2023年度後期放送のNHK朝ドラ第109作で、10月1日(月)から放送がスタート予定になっています。
香川生まれの大阪育ちで銭湯の看板娘だった花田鈴子が、”ブギの女王“と呼ばれる戦後の大スターとなっていく物語。主人公・花田鈴子を演じるのは、趣里さんで、戦後の大スター·笠置シヅ子さんをモデルとしています。
そこで今回は、ブギウギモデル笠置シヅ子の生涯養子や結婚相手の死!について紹介したいと思います。
目次
ブギウギ花田鈴子のモデル笠置シヅ子の生涯・養子や結婚相手の死!
シヅ子は養子!?
朝ドラ『ブギウギ』の主人公·花田鈴子のモデルは、「東京ブギウギ」などの曲で
“ブギの女王“と呼ばれた笠置シヅ子さん(以下、敬称略)です。
笠置シヅ子は、本名「亀井静子」と言い、大正3年(1914年)8月25日に香川県大川郡
相生村で産まれました。
相生村は現在、合併して「東かがわ市」となっています。
笠置シヅ子の父親は相生村の豪農·三谷陳平で、母親は行儀見習いなどで三谷家
に住み込んでいた谷口鳴尾です。
鳴尾はシヅ子が陳平との間に出来ても結婚は許されず、実家に戻ってシヅ子を
育てていました。
しかし、鳴尾の乳の出が悪かったため、大阪から出産のために相生村に帰省して
いた亀井ウメに、もらい乳を頼んでいたようです。
その後、色々あったらしく、鳴尾はシヅ子を手放すことになり、亀井ウメが
シヅ子を養女として大阪へと連れ帰ることに。
笠置シヅ子を養子にしたのは、亀井ウメの独断だったようで、ウメの夫である
亀井音吉は養子のことを知らず、ウメが2人の子どもを連れ帰ってきたことから、
双子が産まれたと驚いていたようです。
この時に産まれた亀井ウメの実子は、3歳の時に風邪を拗らせて亡くなり、
その子の四十九日が済んだ頃、シヅ子はウメに連れられて、踊りの師匠に弟子
入りしました。
シヅ子は幼い頃から身体が弱かったため、ウメはシヅ子の将来を心配して、
芸を身に付けさせようと考えていたのです。
亀井家は大阪で米屋を営んでいましたが、相次ぐ米騒動でイヤになり、シヅ子
が小学校に入学する時に、米屋を廃業し、銭湯を始めました。
シヅ子はその銭湯で歌ったり踊ったりしていると、近所で評判になり、頼まれて
小屋かけの浪速芝居の芝居に子役として出演するなど、色々な舞台に出演し、
地元で人気になっていくのでした。
ブギウギ 笠置シヅ子が松竹楽劇部に入る
笠置シヅ子は13歳の時に松竹楽劇部に入部します。
13歳で小学校を卒業したシヅ子は、自信満々に兵庫県にある宝塚少女歌劇団を
受けましたが、シヅ子は子どもの頃から身体が弱かったため、身体検査で身長が
足りず、不合格になってしまいました。
その後、シヅ子は花街の知り合いの芸鼓屋から下地っこ(芸鼓)として来ないかと
誘われます。
それがイヤだった笠置シヅ子は、松竹楽劇部に願書を出したと言い、芸鼓になる
ことから逃れました。
しかし、松竹楽劇部に願書を出したと言うのは嘘で、シヅ子が松竹楽劇部の
事務所に行くと、生徒は募集しておらず追い返されてしまいます。
ところが、シヅ子は芸鼓屋に奉公するのがイヤだったため、連日に渡って松竹楽
劇部の事務所に押し掛けていると、松竹楽劇部の面々が根負けして、部長の松本
四郎に会わせてくれることになったのです。
シヅ子が宝塚少女歌劇団に落ちたことを明かして入部をお願いすると、松本は
「それだけ喋れれば、体も悪くないだろう」と言い、入部を認めてくれたため、
13歳で笠置シヅ子は松竹楽劇部に入部。
松竹楽劇部は人数も少なく、教育機関もほとんど無かったため、笠置シヅ子は
本名の「亀井静子」から「三笠静子」という芸名にして、松竹楽劇部に入部した年に
舞台『日本八景おどり』でデビューしました。
笠置シヅ子は先輩の用事などを要領よくこなすため、先輩達に可愛がられ、
「豆ちゃん」と呼ばれており、病欠が出たりすると、代役として起用されるなど、
同期に比べて舞台に立つ機会が多かったようです。
シヅ子、養子だということを知る
養母·亀井ウメは、シヅ子に養子だと知られてはいけないと思い、シヅ子が
小学校に入学する頃から、香川県に里帰りしてもシヅ子の生家である三谷家には
近付かないようにしていました。
しかし、シヅ子が17歳の頃、避暑で香川県を訪れた際に親戚に見つかり、シヅ子
を1人で三谷家の法事に出席させることになってしまいます。
シヅ子の実父である三谷陳平は、シヅ子が産まれてすぐに死んでいて、この法事
は陳平の十七回忌でした。
シヅ子は自分が亀井家の養子であることを知りませんでしたが、三谷家の法事に
出席し、出席者の噂を小耳に挟み、自分と三谷家に関係があることを知ります。
それを知ったシヅ子は親戚を問い詰めて、実母の谷口鳴尾が同じ町内に住んで
いることを知り、実母に会いに行きます。
しかし、実母は子どもを連れていたため、お互いに親子と名乗りあうことは
ありませんでした。
笠置シヅ子はこうして自分が養子であることを知りましたが、実子同然として
育ててくれた養父母に感謝していたため、養父母には養子だと知ったことを
シヅ子は明かさなかったのでした。
桃色争議
昭和8年(1933年)、笠置シヅ子が18歳の時に松竹楽劇部で、”桃色争議“と呼ばれる
労働紛争が起きました。
この頃、映画界では無声映画からトーキー映画への過渡期であり、映画館で不要
になった弁士や楽士の人員整理が問題となっていました。
そんな中、映画館の人員整理に成功した松竹は、昭和7年(1932年)6月に東京の
「松竹少女歌劇部」の音楽部員の解雇や減給を発表。
これに対し、監督などに以前から不満を持っていた松竹少女歌劇部の女子生徒が、
音楽部員と手を組み、水の江瀧子をリーダーとしてストライキを起こしました。
水の江瀧子は、「松竹少女歌劇部」の1期生で、”男装の麗人“として人気のスター
女優でした。
しかし、副リーダーの津阪織江が松竹に調略され会社側に寝返ったため、水の江
瀧子らは、松竹から逃げて、湯河原温泉で籠城を始めます。
一方、大阪でも、東京のストライキを受けて、松竹楽劇部の女生徒が立ち上がり、
飛島明子をリーダーとして待遇改善を求め、高野山に籠城していました。
当時18歳だった笠置シヅ子も大阪のストライキに参加しています。
松竹は映画館の人員整理を成功した経験から、ストライキに対して強気な姿勢で
いましたが、新聞がストライキを”桃色争議“として報じました。
すると、民衆が女生徒達に同情したことから、松竹の劇場は客入りが悪くなることに。
これでは、ライバルの宝塚少女歌劇団が得をするだけなので、松竹は女生徒の
改善案の一部を受け入れる形で、ストライキを終わらせました。
勝利した笠置シヅ子らは、高野山を降りると、道頓堀の松竹系の劇場を巡り、
万歳三唱をしたようです。
シヅ子、歌手として活動を始める
笠置シヅ子が歌手として活動を始めるのは、20歳の頃。
昭和8年(1933年)に松竹で起きた”桃色争議”の処分により、松竹楽劇部は飛島
明子をはじめ、大勢のスターを失うことになり、不振に陥りました。
そのため、松竹楽劇部は昭和9年(1934年)に「大阪松竹少女歌劇団(OSSK)」へ改称。
拠点も大阪劇場に移し、立て直しを図りました。
さらに、大阪松竹少女歌劇団はコロムビアと提携し、再出発の第1回公演『カイ·
エ·ダムール』の主題歌のレコードを発売。
このレコードの吹き込みに抜擢されたのが20歳のシヅ子だったのです。
シヅ子が抜擢された理由は、女生徒の中で1番声が大きかったから。
そして、笠置シヅ子が吹き込んだ主題歌がA面の『恋のステップ』で、作曲家は
服部ヘンリーでした。
服部ヘンリーは服部良一のペンネームであり、シヅ子は後に服部良一に出会い、
“スイングの女王”、”ブギの女王”として活躍することになります。
シヅ子が歌った『恋のステップ』はヒットし、シヅ子は歌手としての道を歩み
始めました。
大阪松竹少女歌劇団は”桃色争議”により大勢のスターを失いましたが、残留組の
笠置シヅ子にとっては活躍の場を得る機会になり、彼女達の活躍によって、
人気を盛り返していくのでした。
「三笠静子」から「笠置シヅ子」へ
昭和8年(1933年)に起きた”桃色争議”により、松竹楽劇部は大勢のスターを失った
ことをきっかけに、残留組の笠置シヅ子はスターの仲間入りを果たし、大阪松竹少女歌劇団となってからその幹部に
なっていました。
そんな中、昭和10年(1935年)12月に崇仁親王が「三笠宮家」を創設。
この頃、笠置シヅ子は「三笠静子」という芸名で活動していましたが、“三笠”を
名乗るのは不敬だとして、松竹からの命令により、「三笠静子」から「笠置シヅ子」
に改名するのでした。
シヅ子、上京する
昭和13年(1938年)、笠置シヅ子が24歳の時に上京して東京の「松竹楽劇団(SGD)」
に移籍します。
シヅ子の養父·亀井音吉は銭湯を営んでいましたが、シヅ子の弟·亀井八郎が
散髪屋を開業したのをきっかけに、銭湯を廃業。
公務員の月給が75円だった時代に、笠置シヅ子は会社から給料として80円、
養父母から小遣い100円をもらっていたので、親の道楽で通わせてもらっていた
ようなものでした。
しかし、昭和13年(1938年)に散髪屋を営んでいた弟·八郎が兵隊に召集されて
丸亀連隊に入隊することになったため、途端に笠置シヅ子が1人で両親の面倒を
見なければならなくなりました。
一方、東京では阪急グールの東宝が、東京宝塚劇場を建設して、宝塚少女歌劇を
東京に進出。
さらに、東宝は有楽町の日本劇場で「日劇ダンシングチーム(NDT)」を立ち上げ、
東京で攻勢を掛けていました。
松竹は日劇ダンシングチームに対抗するため、昭和13年(1938年)に東京の帝国
劇場で男女混合レビューの「松竹楽劇団(SGD)」を立ち上げ、東京と大阪の松竹
からスターを結集します。
笠置シヅ子も東京公演が松竹に認められて、東京の松竹楽劇団の旗揚げにスカウト
されました。
弟の八郎が兵隊に召集され、両親の面倒を見なければならなくなったシヅ子は、
金銭的な事情から、上京して東京の松竹楽劇団に移籍するのでした。
服部良一と出会う
笠置シヅ子が作曲家·服部良一と出会うのは24歳の時です。
シヅ子は昭和13年(1938年)に上京し、松竹楽劇団の旗揚げに参加した中で、松竹
楽劇団で副指揮者を務めていた服部良一と出会います。
服部良一は、前年の昭和12年(1937年)に淡谷のり子の『別れのブルース』で
大ヒットを飛ばし、新進気鋭の作曲家として注目を集めていました。
笠置シヅ子は服部良一に認められ、服部良一のジャズ理論を実践するテストケース
として、地声で歌うように言われ、声を潰して病院に通いながらも、練習に励み、
コロムビアから『ラッパと娘』を発売。
笠置シヅ子はジャズ歌手として人気を集め、服部良一とのコンビで”スイングの
女王“として活躍するのでした。
東宝移籍事件
シヅ子が24歳の時に東宝移籍事件が発生。
昭和12年(1937年)に東宝が松竹の林長二郎(長谷川一夫)を引き抜くという事件が
起き、この事件を機に、芸能界全体で引き抜き合戦が起き、引き抜き合戦は
泥沼化していきました。
そんな中、昭和13年(1938年)に笠置シヅ子も東宝から引き抜きを受けていたのです。
笠置シヅ子は養母·亀井ウメの手術代が必要だったため、給料の良い東宝への
移籍を承諾しましたが、松竹に察知され軟禁されてしまいます。
服部良一がシヅ子の移籍問題を解決するために奔走しましたが、解決出来ずに
シヅ子は東宝に移籍することなく松竹歌劇団に残りました。
同年、シヅ子の養母·亀井ウメは亡くなりました。
シヅ子、松竹から独立
昭和13年(1938年)に起きた東宝移籍問題は泥沼化したままで、笠置シヅ子は松竹
歌劇団に残っていたものの、戦時下の影響もありジャズが歌いにくくなっていました。
この頃の歌手は、真顔で直立不動で歌うことが普通でしたが、笠置シヅ子は
つけまつ毛をしたり、踊りながら歌っていたため、警察に目をつけられ、敵性
歌手となってしまいます。
戦時下でジャズが歌いにくくなったシヅ子は、昭和16年(1941年)27歳の時に
松竹を辞めて独立。
服部良一らの支援を受けて、”笠置シヅ子とその楽団“を発足しました。
その後、松竹歌劇団も戦時下の影響により解散することに。
同年12月、シヅ子の弟·亀井八郎が戦死。
その2日後には日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が勃発するのでした。
運命の出会い
笠置シヅ子は、松竹を辞めた後、”笠置シヅ子とその楽団“を立ち上げ、歌手
として活動を続けていました。
しかし、警察から敵性歌手とされていたため、戦地慰問には呼ばれず、地方巡業
や工場慰問をしていたのです。
太平洋戦争の影響により、敵国の音楽だとされていたジャズへの風当たりが
強まっていましたが、敵国であるアメリカやイギリスの曲以外だったら、問題
なかったため、クラシックやタンゴなどの音楽は演奏することが出来ました。
笠置シヅ子らは、クラシックをジャズにアレンジした音楽を演奏していたようで、
人気だったようです。
しかし、戦況が悪化するにつれて、ジャズを排除する動きは強くなり、シヅ子は
南方をテーマとした『アイレ可愛や』や軍歌を歌うようになっていきました。
昭和18年(1943年)6月18日、29歳になったシヅ子は、仕事で名古屋を訪れていた
時に、親しくしていた辰巳柳太郎の楽屋に行き、”眉目秀麗な貴公子“を見て
動揺します。
この男性こそ、吉本興業の社長·吉本せいの次男である吉本穎右だったのです。
吉本穎右は吉本せいの次男ではありましたが、長男がすでに他界していたため、
実質的には吉本興業の跡取りであり、当時は慶應義塾大学の学生でした。
この時は、お互いに目撃しただけで言葉も交わさなかったようですが、吉本穎右
が笠置シヅ子のファンだったため、後日、穎右からシヅ子のところに挨拶に
来て、初めて言葉を交わしました。
そして、2人とも関西方面に行くことがわかったため、同じ汽車に乗り、やがて
お互いの家を行き来する仲になりました。
この時、笠置シヅ子は30歳で、吉本穎右は21歳。
9歳も年の差があったため、シヅ子ははじめ、穎右のことを弟のように扱って
いましたが、やがて恋愛に発展して2人は結ばれることになりました。
しかし、仕事はますます厳しくなる一方で、”笠置シヅ子とその楽団”は勝手に
マネージャーが売却してしまったため、シヅ子は楽団の解散を余儀なくされて
しまったのです。
その後、笠置シヅ子は吉本穎右の配慮により、マネージャーを付けてもらうなど
吉本興業のサポートを受けて音楽活動を続けるのでした。
穎右との同居、そして妊娠
昭和20年(1945年)5月。
東京大空襲により笠置シヅ子と吉本穎右は家を失ったため、吉本興業の東京
支配人·林弘高が借りていたフランス人の家に移り、2人は同居を始めました。
同居とは言っても、部屋は別々で他にも空襲によって家を失った人達が住んで
いたため、同じ部屋で暮らすわけではありませんでしたが、2人にとってそれは
幸せな時間でした。
同年8月。
笠置シヅ子は富山県を巡業している時に玉音放送を聞いて、日本が敗戦したこと
を知りました。
戦後、笠置シヅ子と吉本穎右は結婚に向けての準備を始めるため、フランス人宅
を出て、別々に暮らすことにしました。
シヅ子は作曲家·服部良一の家に居候しますが、良一の妻に迷惑がかかっている
ことに気付き、荘村正栄の家に住むことに。
一方、吉本穎右はシヅ子との結婚に向けて準備をしていたようで、大学を中退
して東京の吉本興業で働いていました。
しかし、穎右の母·吉本せいが病気だったこともあり、実家の吉本家から大阪へ
戻るよう穎右に要請が来ました。
そして、穎右は吉本家の財産整理をしなければならなくなったため、大阪に帰る
ことになり、笠置シヅ子は穎右を琵琶湖まで見送ります。
その後、シヅ子は琵琶湖から東京まで戻ってくると、穎右との子どもを妊娠して
いることに気付くのでした。
結婚相手の死!と出産
戦後、笠置シヅ子は吉本穎右と結婚の約束をしていて、結婚したら芸能界を引退
することになっていました。
大阪の吉本家からは結婚の許しを得ていませんでしたが、大阪に戻った吉本穎右
が頃合いを見て、母·せいを説得しようと考えていたのです。
吉本穎右は吉本興業の跡取りであるため、もし母·せいに結婚を反対されても、
駆け落ちを切り出せば、せいは不本意でも結婚を認めるだろうと考えていました。
昭和22年(1947年)2月、笠置シヅ子とお腹は大きくなっていましたが、既に舞台
『ジャズカルメン』での主演が決まっていたため、医師の勧めもあり、舞台
『ジャズカルメン』で主演を果たしました。
そして、シヅ子は舞台『ジャズカルメン』を最後に芸能界を引退。
結婚を約束していた吉本穎右は、舞台『ジャズカルメン』の公演中に東京へ
戻って来る予定だったため、シヅ子は穎右との結婚に向けて新居を購入し、穎右
が戻って来るのを心待ちにしていました。
しかし、待てど暮らせど穎右は東京に戻って来ません。
そんな中、大阪の吉本興業から穎右が体調を崩したという知らせがシヅ子の元に
来ます。
吉本穎右の容態は一旦、回復に向かいますが、再び悪化して入院することに
なったため、シヅ子は大阪へ行こうとしました。
しかし、シヅ子は臨月だったため、医師から臨月のシヅ子が行けば、逆に穎右を
不安にさせるだけだと止められ、大阪行きを断念。
一方、大阪でもせいの弟·林正之助が、最期に穎右にシヅ子を会わせてあげよう
と考え、船をチャーターしてシヅ子を大阪へ運ぼうとしました。
しかし、穎右が身重のシヅ子のことを心配して断ったため、2人が再び会うことは
叶いませんでした。
笠置シヅ子は昭和22年(1947年)5月18日に、吉本側から「知らぬ顔をして至って
後で恨まれると困るから、お知らせだけしておく」ということで、吉本穎右が
危篤状態に陥ったという連絡を受けました。
そして、吉本穎右は我が子の姿を見ることなく、翌日5月19日に西宮にある
吉本家で亡くなりました。
笠置シヅ子は、5月20日にマネージャーの山内義富から吉本穎右が死去したこと
を知らされます。
5月25日、吉本興業の前田栄一から吉本穎右の遺言をシヅ子は告げられました。
吉本穎右は産まれてくる子どものために通帳を遺していて、男の子なら「穎造
(えいぞう)」、女の子なら「エイ子」と名付けるよう言い遺して亡くなったそうです。
笠置シヅ子は失意のどん底に突き落とされながらも、昭和22年(1947年)6月1日に
女の子を出産すると、穎右の遺言に従って、娘に”亀井エイ子”と名付けるのでした。
シヅ子のその後
亀井エイ子を出産した後、笠置シヅ子は幼いエイ子を抱えながらも歌手に復帰。
そして、服部良一が手掛けた『東京ブギウギ』のヒットによりスターダムを
駆け上り、”ブギの女王“と呼ばれるようになりました。
その後、笠置シヅ子のモノマネをする少女·美空ひばりが現れると、笠置シヅ子は
美空ひばりに追い抜かれてしまいます。
そのため、笠置シヅ子は歌手を引退し、女優として活躍するのでした。
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ここまでが、ブギウギ モデル笠置シズ子の生涯養子や結婚相手の死!について
の紹介でした。
笠置シヅ子さんは本名·亀井静子さんであり、吉本興業の創設者·吉本せいさんの
次男である穎右さんとの結婚を約束した人物でした。
吉本せいさんをモデルにした朝ドラ『わろてんか』では、笠置シヅ子さんに
ついては全く触れられていません。
今回はどの様に描かれるのか、とても気になります。
作曲家·服部良一さんをモデルにした羽鳥善一を草彅剛さんが演じるのは、
適役だと思いました。
おそらく史実のように進むなら、吉本せいさんを実在モデルとした人物もドラマ
に登場すると思いますので、誰が演じるのかにも注目ですね。
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