朝ドラ夏空「なつぞら」ヒロインなつの元ネタになってる実在モデル奥山玲子さんについての詳しい内容です。
4月から始まる第100作となる上半期の朝ドラ『なつぞら』のヒロイン奥原なつ
の実在モデルとされるのは、アニメーターの奥山玲子さんです。
そこで今回は、なつぞらのヒロインの元ネタになってる奥原なつの実在モデル・奥山玲子さんに
ついて紹介したいと思います。その奥山さんの結婚相手さんも紹介し、なつぞら夏空の朝ドラでは誰と結婚するかも読んでいけばわかると思います↓
目次
奥原なつの元ネタ実在モデル:奥山玲子の生涯
この画像は奥山玲子さんを演じる広瀬すずさん↑
すずさんが年を重ねた40才や50才の奥山さんを演じるのが、可愛すぎて想像できません( ゚Д゚)
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なつぞらのヒロイン・奥原なつの実在モデルとされる奥山玲子さんは、昭和5年
(1930年)宮城県仙台市に生まれました。
父は商人の家系で、母は伊達藩の国家老の次男の家系でした。
奥山玲子さんは病弱で、秋から春までは床に伏せるという少女時代を過ごして
いますが、児童文学や漫画を読んだことはなく、小学4年生の時には既に、
「シェークスピア全集」や「日本文学全集」、「世界文学全集」を読むという
文学少女でした。
それからは、自分で西洋童話を創作し、衣装を作って、兄弟に役を割り振り、
年に2度、近所の人や親戚を集めて劇を披露していました。
大人不振で反抗期へ
奥山玲子さんは病弱のため、小学生の時は休んでばかりいましたが、成績は
良かったため、総代として卒業証書を受け取りましたが、敗戦をきっかけに
価値観がまるっと変わり、大人不信に陥ってしまい、反抗期へ突入。
奥山玲子さんは小学校を卒業後はミッションスクールに進学しましたが、
「大人の言うことは聞かない」と決め、反抗的な少女となり、教師達を困らせました。
そして、フランスの実存主義に影響を受け、フランスの哲学者シモーヌ・ド・
ボーヴォワールの様になりたいと思うようになりました。
上京し東宝動画に入社
奥山玲子さん↑
奥山玲子さんはミッションスクール卒業後、父の意向により、東北大学教育学部
に進学しましたが、教師になる気になれず、家出同然の様に東京へ上京すると、
職を転々とします。
そんな中、務めていたデザイン会社が不景気の影響により給料遅配となり、
困っていたところ、奥山玲子さんの叔父から東映動画(東映アニメーション)の
一般公募があることを教わりました。
当時の奥山玲子さんは27歳で、「動画」のことを「童画」と勘違いしていて、絵本の
仕事だと思って面接を受けに行くといきなり中割を描かされて驚きますが、
何とか東映動画に採用され、臨時採用として東映動画に入社しました。
この頃、東映本社採用の大卒の給料が1万3500円で、その下が東映動画の定期
採用でしたが、給料は男性よりも女性が低い時代でした。
奥山玲子さんの様な臨時採用者には給料の男女差はありませんでしたが、
臨時採用は定期採用の半分しか給料はもらえず、大卒で6000円、高卒で5000円
ほどでした。
しかも、定期採用のノルマは動画15枚で皆、定時に帰るのに対し、臨時採用は
残業代を稼がないと生活できないため、残業を続け、1日に40枚もの動画を
奥山玲子さんは描いていたと言います。
そんな奥山玲子さんの初めての仕事は昭和33年(1958年)の「白蛇伝」で、その次は
誰もやりたがらなかった「たぬきさん大当たり」の班に入れられました。
しかし、ここでの仕事ぶりが認められ、次の「少年猿飛佐助」では、同期で最初の
セカンドに抜擢されました。
さらに、奥山玲子さんは昭和36年(1961年)に公開された「安寿と厨子王丸」で
原画補に昇格すると、翌年の昭和37年(1962年)公開の「シンドバッドの冒険」で
原画に昇格し、ヒロインや猫のデザインを任されることになりました。
昭和38年(1963年)、手塚治虫さんがフジテレビで30分の日本初のテレビアニメ
「鉄腕アトム」の放送を開始します。
これにより、日本のテレビアニメ時代が始まりますが、「鉄腕アトム」は毎週1本
のアニメを作らなければならないという当時にはとても無謀と思える挑戦でした。
小田部洋一さんと結婚
現在の小田部さん↑ダンディーでかっこいいですね!
そんな中、33歳となった奥山玲子さんは、「鉄腕アトム」が放送開始された年に
後輩の小田部羊一さんと結婚し、出産を経て、昭和40年(1965年)に会社に
復帰しました。
東映動画は当時、ブラック企業で女性差別があり、入社時に女性は「結婚したら
退職する」という誓約書を書かされたり、昇格と引き換えに一生独身を
迫られたりした人もいました。
奥山玲子さんは、この様な差別と戦うことを決め、結婚しても職場に残りました。
東映動画の女性社員で結婚後も職場に残ったのは、奥山玲子さんが初めてで、
産休が開けて職場に奥山玲子さんが復帰すると、会社は契約社員の方が給料を
多く払えるとして、契約社員への話を持ち掛けました。
ちなみに、当時の契約社員は現在の契約社員とは違い、重要な人が契約社員と
なって、給料をたくさん貰っていたようです。
しかし、奥山玲子さんは皆と一緒に会社の枠組みの中で、差別や格差と戦いたい
と考え、契約社員の話を断ると、会社からボーナスや昇給の査定を下げられて
しまいました。
そこで奥山玲子さんは、技術と仕事量で会社からの圧力に対抗しようと考え、
「狼少年ケン」の作画監督を務めました。
すると会社は、その矛先を奥山玲子さんから夫の小田部羊一さんに変え、
勤務時間中に自動車学校に通っていたとし、職場離脱と責めました。
この時、夫の小田部羊一さんは、テレビアニメ「少年忍者・風のフジ丸」の作画
監督補佐を務めており、テレビアニメは1週間単位で作品を仕上げるため、深夜
作業が多くなることから、朝の出勤が遅くなっても黙認されていました。
そのため、小田部羊一さんは子供の送り迎えに車が必要になったので、朝の時間
を使って教習所に通っていたのです。
小田部さんが会社を解雇され、玲子さんは漫画アニメを担当に
会社から責められた小田部羊一さんは、「皆やっている」と言って、会社からの
警告を聞かなかったため、話はこじれていき、最終的に会社は小田部羊一さんを
解雇してしまいました。
そこで、奥山玲子さんは労働組合に助けを求めましたが、個人的な問題である
として労働組合は初めは相手にしてくれませんでしたが、奥山玲子さんがこれは
共働きに対する差別だとして組合員を説得すると、労働組合も解雇撤回を求めて
東映動画と戦ってくれました。
労働組合の中心にいた高畑勲さんや宮崎駿さんも解雇撤回に真剣に取り組んで
くれ、本社の労働組合や弁護士の協力もあって、小田部羊一さんの解雇は撤回
され、降格処分という形で決着しました。
ところが、その後、高畑勲さん・宮崎駿さん・小田部羊一さんの3人は、
東映動画を去ってAプロダクション(後のシンエイ動画)へ移籍することに
なると、今度は奥山玲子さんが東映動画を辞められない雰囲気になって
しまいました。
しかし、その一方で、奥山玲子さんは「魔法使いサリー」、「ひみつのアッコ
ちゃん」、「デビルマン」、「マジンガーZ」などの漫画アニメを手掛けましたが、
流れ作業だった上に、会社との関係もあり、責任を負わされて辛い仕事
だったようです。
昭和46年(1971年)に東映の社長である大川博さんが亡くなると、赤字部門だった
「東映フライャーズ」と「東映動画」がやり玉に挙がってしまい、東映動画は
リストラを始めました。
東映動画は労働組合が強かったため、仕事をする社員も、しない社員も同じ
給料を貰っていたので、非効率で人件費も膨らんでおり、それを削減するために
東映動画が指名解雇を始めました。
そのことに労働組合は激しく対立し、労働紛争へと発展してしまったことで、
東映動画は会社を封鎖して社員を閉め出し、ロックアウトする事態になりました。
女性の作画は奥山玲子さん以外は全員解雇され、アニメの制作は一部の社員と
外注によって制作するという事態となり、それでは到底、良いアニメが作れる
ような環境ではなくなってしまいます。
しかし、奥山玲子さんは長編アニメ「アンデルセン童話・にんぎょ姫」の作画監督
を担当すると、社内制作を主張し、外部スタッフに協力してもらいながらも、
東映動画の社内中心に長編アニメを完成させました。
その後、労働紛争が和解となり、解雇された社員達が戻ってくると、奥山玲子さんは
この機会を逃したら東映動画を辞められなくなると思い、「長靴をはいた猫・
80日間世界一周」を最後に、18年間勤めた東映動画を辞めました。
▼7月25日発売のガイドブックパート2では26週最終回まであらすじのネタバレされてます。早く知りたい方はぜひどうぞ↓
小田部さんは宮崎駿さんと同じ会社に
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その頃、夫の小田部羊一さんは、高畑勲さんと宮崎駿さんと一緒に、Aプロから
ズイヨー映像(後の日本アニメーション)に移籍して、「アルプスの少女ハイジ」に
続き、「母をたずねて三千里」を制作していました。
そこで、奥山玲子さんは小田部羊一さんから強い要請を受けて、ズイヨー映像に
入社し、「母をたずねて三千里」の制作に加わり、作画監督補佐を務めましたが、
奥山玲子さんは東映動画時代の反動から、組織の中で働くことが嫌になり、
「母をたずねて三千里」の制作が終わるとフリーに転身しました。
そんな中、東映動画から小田部羊一さんは長編映画「龍の子太郎」の作画監督を
依頼されました。
小田部羊一さんは、仕事を引き受ける条件に、演出を高畑勲さん、美術は土田勇
さん、制作は岸本松司さん、作画監督補佐には妻の奥山玲子さんを指名しました。
ところが、東映動画は準備期間には奥山玲子さんに給料を払わないと拒否します。
それに怒った小田部羊一さんは、机を蹴って帰ってきたので、奥山玲子さんは
小田部羊一さんを説得し、長編映画「龍の子太郎」の作画監督を引き受けさせ、
準備期間中は奥山玲子さんは無償で働きました。
この他にもフリーになった奥山玲子さんは、運良く仕事に恵まれ、「キャンディ・
キャンディ」、「まんが日本絵巻」、「じゃりん子チエ」を手掛けました。
しかし、奥山玲子さんはこの頃には50歳になっていて、「じゃりんこチエ」を
手掛けた頃から、自分のパートだけを担当する流れ作業が嫌になっていました。
この頃から、奥山玲子さんは絵本も手掛けるようになっていて、絵本の仕事は
アニメーションより楽しかった様ですが、大人の絵を描きたいという欲求が
捨てきれず、昭和60年(1985年)に絵本も描くのをやめました。
夫婦で学校の講師へ
そして、森康二さんの要請を受けて、夫の小田部羊一さんと一緒に、昭和60年
(1985年)から東京デザイナー学院アニメーション科で講師に就任し、後進の
育成を始めました。
奥山玲子さんは、アニメーション女性講師の草分け的存在となり、18年間の
講師生活で、数多くのアニメーターを世に送り出しています。
58歳になった奥山玲子さんは、昭和63年(1988年)に公開した映画「火垂るの墓」
を最後に、アニメーターから引退すると、銅版画家としての道を歩みます。
それからまもなく、顔見知り程度だった岡本忠成さんから、短編アニメ「注文の
多い料理店」への参加を頼まれ、その作品は通常のアニメではなく、銅版画調で
やりたいと言われます。
効率化が求められていた時代に、岡本忠成さん達は非効率を楽しんでいたため、
奥山玲子さんもこの作品なら、と仕事を引き受け、主にハンター2人の原画を
担当しました。
この作品で奥山玲子さんは、アニメーションをやってきて良かったという思い、
自分のキャリアは無駄ではなかったと楽しんで仕事をしていた様です。
短編アニメ「注文の多い料理店」は制作途中で岡本忠成さんが亡くなったため、
一時制作が中断されましたが、盟友の川本喜八郎さんが後継となり、平成3年
(1991年)に無事、公開されることになりました。
奥山玲子さんは、この制作に関わったおかげで、自分の中にあったモヤモヤした
ものが晴れ、以降は「注文の多い料理店」の様な特殊なアニメーションだけに
関わることを決意します。
奥山玲子さんは長年、アニメーション業界に携わっていましたが、最も印象に
残る作品は、「注文の多い料理店」だと話しています。
奥山玲子さんは「注文の多い料理店」の仕事が終わった後、銅版画の個展などを
開催して、銅版画家としてのキャリアを積んでいきました。
そして、平成15年(2003年)公開の銅版画調アニメ「冬の日」で、奥山玲子さんは
絵コンテと設計を担当して、アニメーション作家としてデビュー。
夫の小田部羊一さんは原画を担当しました。
その後も奥山玲子さんは、銅版画をフルアニメーションで動かす自主制作作品の
構想を練っていましたが、平成19年(2007年)5月6日、肺炎のため、この世を
去りました。享年77歳でした。
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ここまでが、なつぞらのヒロイン奥原なつの実在モデル・奥山玲子さんに
ついての紹介のでした。
なつぞらのヒロインである奥原なつは、奥山玲子さんを実在モデルにしていると
言われていますが、奥山さんは戦争で両親を亡くした訳ではありませんし、
北海道にも住んでいない様なのでその辺はオリジナルストーリーとなりますね。
それにしても、当時の東映動画は女性差別が酷すぎて驚きです。
そんな中、闘う姿勢を見せた奥山玲子さんは素晴らしいと感じましたし、
「魔法使いサリー」、「ひみつのアッコちゃん」、「デビルマン」、「マジンガーZ」
などの昭和世代には分かる有名なアニメ漫画を手掛けていたのは凄いです。
なつぞらで、なつがどんなアニメーションを作るのか、とても楽しみになって
きました。
そして、実在モデルの奥山玲子さんの夫である小田部羊一さんも、高畑勲さんや
宮崎駿さんと一緒に仕事をしていた有名人。
なつぞらでは、なつはどんな男性と結婚するのかもまだまだ先のことでは
ありますが、気になって仕方ありませんね。
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