なつぞら結婚相手ネタバレ山田天陽(吉沢亮)結末をモデル神田日勝から

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なつぞら 結婚相手ネタバレ山田天陽キャスト吉沢亮についてと 実在モデル 
神田日勝についてから結婚結末を考察していきます。

4月から始まる第100作となる上半期の朝ドラ『なつぞら』のヒロイン奥原なつ
の結婚相手の1人と予想される山田天陽役を演じるのは、吉沢亮さんです。

吉沢亮さん演じる山田天陽は、ヒロイン・奥原なつに絵心を教えるという
大事な役割を担う青年となっています。

そこで今回は、吉沢亮さんのプロフィールと結婚相手の1人・山田天陽の役柄
について、山田天陽の実在モデルとされる神田日勝さんについてネタバレ
紹介し、結婚可能性を考察していきたいと思います。

実在モデルの神田さんを読んで考えていくと、結婚相手は他にもう一人いるのではと考られ、身近なあの人なのではと、、三角関係にも発展するかもです!なのでそれは最後にのせておきますね!

山田天陽を演じる吉沢亮さんについての紹介

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吉沢亮さんのネタバレプロフィールはこちら


(引用元:https://mobile.twitter.com/ryo_staff/status/1105462530544029696/photo/1)

生年月日 1994年2月1日(25歳)
出身地 東京都
身長 171 cm
血液型 B型
職業 俳優
事務所 アミューズ

吉沢亮さんは、2009年に母親が応募した「アミューズ全国オーディション
2009 THE PUSH!マン」で応募者31514名の中からRight-on賞を受賞し、事務所
に所属します。

2011年、『仮面ライダーフォーゼ』で2号ライダーの仮面ライダーメテオを
演じることになり、その端正な顔立ちから注目を集めました。

2013年、ドラマ『ぶっせん』で主演に抜擢され、この作品は舞台としても
上演されていますが、主演を務めたこの舞台でうまく現場をまとめられず、
客席も埋められなかった悔しさが役者としての意識に繋がったと語っています。

2017年、映画『銀魂』で沖田総悟役に抜擢されると、公表されたキャラクター
ビジュアルは原作の設定に近く、実写化すると反対も多い原作ファンからも
支持を得ることになりました。

そのお陰もあってか、JUMP作品の実写映画『斉木楠雄のΨ難』(2017年)、
『BLEACH』(2018年)、『キングダム』(2019年4月19日公開予定)に次々と
キャスト出演されています。

2018年に公開された映画『リバーズ・エッジ』では、二階堂ふみさんの
相手役に選ばれます。

作品は第68回ベルリン国際映画祭のパノラマ部門に出品され、行定勲監督、
二階堂ふみさんと一緒に、吉沢亮さんもレッドカーペットに登場し、作品は
国際映画批評家連盟賞を受賞しました。

また、同作品で吉沢亮さんは、日本アカデミー賞新人俳優賞も受賞されています。

吉沢亮さんは2018年に公開された映画『ママレード・ボーイ』や『あのコの、
トリコ。』でも主演を務めた、今、注目の若手俳優の1人です。

NHKの朝ドラには初出演となります。

なつぞらで吉沢亮さん演じる山田天陽の役柄

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山田天陽は、美術の才能がありましたが、貧しいため、進学せずに農業を
手伝っています。

農作業の合間に、べニヤ板に描く絵は繊細にして大胆、躍動感あふれる馬の絵を
得意としているようです。

アニメーターを目指すなつに絵心を教え、彼女の生涯に大きな影響を与える
人物となります。

山田天陽の実在モデル:神田日勝の生涯

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神田日勝さんは、昭和12年(1937年)12月8日に東京市板橋区練馬南町(現・東京都
練馬区練馬)で、神田要一さんとハナさんの次男として生まれました。

日勝という名前の由来は、日中戦争の最中に生まれたため、「日本勝利」を願って
「日勝(にっしょう)」とされたようです。

神田日勝さんは、昭和19年(1944年)に7歳で練馬開成国第2民学校に入学
しましたが、翌年の昭和20年(1945年)に8月、父の神田要一さんが東京大空襲
により仕事が困難になったこともあり、北海道を開拓する拓北農兵隊に応募。

そして、一家で北海道鹿追町に移住しました。

しかし、神田家が北海道鹿追町に到着した翌日、玉音放送が流れ、日本の敗戦を
知ることとなりました。

拓北農兵団の募集条件は良かったものの、その条件のほとんどが履行されず、
神田家は北海道で帰農しましたが、非常に苦しい生活となりました。

農業だけでは生活が成り立たなかったため、父の神田要一さんは郵便配達の
仕事もしていましたが、数ヶ月後に火事で自宅を無くしてしまうという事態に
なってしまいます。

小さい頃から絵が好きだった神田日勝さんは、編入した笹川小学校から
鹿追中学校へと進学して美術部に入りました。

そして、15歳の時に兄の神田一明さんの指導によって油絵を始めます。

兄の神田一明さんは高校を卒業すると、東京芸術大学へと進学したため、
次男だった神田日勝さんは、鹿追中学校を卒業すると、進学せずに16歳で
家を継ぎ、農業をしながら絵を描いていました。

神田日勝さんは子供の頃は風景画を描いていましたが、兄・一明さんの影響からか
リアリズムへと転身し、19歳の時に平原社展に「痩馬」を初出品し、朝日奨励賞
に選ばれます。

また、23歳の時に昭和35年(1960年)の全道展で「家」が初入選を果たしました。

神田日勝さんが残した作品のほとんどはベニヤ板に描いたものでした。

その理由は、ベニヤ板にペインティングナイフを押しつけた時の手応えが
好きだったことに加え、費用を安くするためだったようです。

そんな神田日勝さんは、25歳で青年団の交流によって知り合った農家の娘の
高野ミサ子さんと結婚しています。

神田日勝さんは下戸でお酒が飲めなかったため、三三九度の杯はミサ子さんが
全て飲み干したようです。

2人は新婚旅行で十勝温泉に行ったものの、家畜の飼料を心配して、早々に
旅行を切り上げ、帰宅したとされています。

神田日勝さんは、結婚後も数々の作品を出展して入選させていましたが、
絵の収入はほとんどなく、農業による収入に頼っていたため、生活はとても
苦しいものでした。

神田日勝さんの絵が初めて売れたのはミサ子さんと結婚してから3年後の
昭和39年(1964年)、28歳の時で、主婦の根元サトさんが全道展で知事賞を得た
「ゴミ箱」を5万円(現在の価値で25万円程)で購入してくれたのです。

また、この年に日勝さんとミサ子さんの間には第1子の長男・神田哲哉さんが
生まれています。

さらに、神田日勝さんは、29歳の時にNHK帯広の農村番組で絵の制作過程が
取り上げられたことにより、画家としての知名度が上がり、定期的に絵が売れる
ようになっていきました。

そして同年、全道展に出展した絵が会友賞を受賞し、会員推挙となり、新人画家
としての地位を確立されました。

そのお陰で、30歳で自動車学校に通うと運転免許を取得し、31歳の時には
軽トラックを購入します。

それまでは神田日勝さんは、馬で町に画材道具を購入しに行っていましたが、
運転免許の取得により、軽トラで画材道具を買いに行けるようになったのでした。

トラクターなどの登場により、農業へ機械化の波が押し寄せる中、日勝さんは
人力と馬に頼る農業を続けていましたが、寒冷被害によって離農する人が
増えたことで、農地を取得して神田家の農地が2倍になると、流石にどうにも
ならなくなってきました。

一方、トラクターを購入した農家も高額なローンを組んでいるため、その返済の
ためには、自分達の仕事だけではどうにもならず、手間賃で仕事を引き受ける
ようになっていました。

そこで、神田日勝さんは、必要な時にだけトラクターを持っている人に仕事を
頼んで、その時間を絵に使うようになりましたが、そのことに後ろめたさを
感じていたのか、自分は農家失格と漏らしていたようです。

昭和43年(1968年)、神田日勝さんが31歳の時に第2子で長女の神田絵理子さんが
生まれます。

この年に帯広信用金庫からカレンダーの絵の依頼があり、その依頼は1枚10万円
という高額なもので、しかも10年間という約束もされました。

このカレンダーの仕事が安定収入になったこともあり、お金になる絵が描ける
ようになったことで、日勝さんが抱いていた農家失格という思いも薄らいで
いたようです。

しかし、そのお金はトラクターの手間賃や農地取得の費用、自作のアトリエ建築
費用などに消えていき、決して生活が楽になったわけではありませんでした。

この時には東京から絵の依頼があったようですが、画家の30代・40代はまだ
新人とされていて、条件は悪かったため、日勝さんはほとんどの仕事を断って
いたようで、絵で食べていけるという生活には程遠いものでした。

農業の合理化や度重なる寒冷被害の影響で、北海道鹿追町の小規模農家は次々と
廃業し、離農していく中で、神田日勝さんもまた、離農を覚悟するようになります。

神田日勝さんは、フランスの農民画家フランソワ・ミレーになぞらえて、「農民画家」
「日本のミレー」「現代のミレー」と呼ばれることがありましたが、日勝さん自身は、
「農民画家」と呼ばれることを嫌っており、それが原因で離農を考えていた
という説もあります。

実際に神田日勝さんは自分のことを「画家である、農家である」と区別して
語っていました。

そんな中、神田日勝さんはある人に手相を見てもらうと、「10年以内に死ぬ」
と言われたことで、死について考え始めたのか、自分が子供のために出来ることは
借金を残さないことと考えます。

そして、自分が死んでもミサ子さんや子供達が生活していけるようにと、小さな
絵を大量に描き始めました。

昭和45年(1970年)、32歳となった日勝さんは、画家と農家の2足のわらじで
多忙な毎日を過ごしており、春頃から発熱や微熱が続くようになっていましたが、
医者嫌いだったこともあり、病院には行かず、解熱剤を飲みながら画家と農業を
続けていました。

しかし、どうしても熱が下がらないため、病院へ行くことを決めると、心が
落ち着いたのか、3人目の子供を作ろうと妻のミサ子さんを抱きました。

同年8月、神田日勝さんは病院で診察を受けると、このまま入院した方が良いと
言われ、入院することにしましたが、絵の仕事があるため、許可を得て、自宅に
絵具とキャンパスを取りに行きますが、病院へ戻ると容態が悪化。

原因不明のまま病状は悪化していき、赤十字病院へと転院することになります。

日勝さんには何も伝えられていませんでしたが、急に病院が代わったこと、
両親と子供までが見舞いに来たことから死を悟り、妻のミサ子さんに「君は、
する事がいっぱいあっていいなあ、
僕はすることがなくなってしまった」と語ったそうです。

一方で、神田日勝さんは3人目の子供が出来なかったことを知らず、楽しみに
していました。

妻のミサ子さんは、医師から日勝さんの余命宣告を受けていたので、3人目の
ことについて、報告するかどうかを非常に悩んでいましたが、正直に日勝さんに
話すことにしました。

3人目がダメだったことを日勝さんに話すと、日勝さんは黙ってしまいました。

そしてその日の晩、神田日勝さんは32歳という若さで亡くなりました

昭和45年(1970年)8月25日、死因は腎盂炎による敗血症でした。

「馬」という作品を描きかけていましたが、途中で亡くなってしまったため、
「馬」は未完成で馬の前半分しか描かれていません。

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ここまでが、なつぞら 結婚相手ネタバレ山田天陽 吉沢亮さんについてと
実在モデル 神田日勝についての紹介でした。

なつぞらでヒロイン・奥原なつの結婚相手の1人として挙げられる山田天陽ですが、
実在モデルとされる神田日勝さんは若くして亡くなっているので、もしかしたら
天陽も早くに亡くなってしまう可能性が出てきました。

そもそも、山田天陽が神田日勝さんを実在モデルとしているのはその共通点が
3つあるからです。

①美術の才能がありましたが、貧しいため、進学せずに実家の農業を手伝う。

②農作業の合間に、べニヤ板に描く絵。

③馬の絵が得意。

一応、今回の作品はオリジナルストーリーとなっていますが、山田天陽の
キャラクターは神田日勝さんを実在モデルとしていることは間違い無さそうです。

山田天陽を演じる吉沢亮さんは、とても可愛らしい顔立ちで、好きな俳優の1人
なので、神田日勝さんをモデルにしているとしても、ストーリー自体はオリジナル
だと思うので、最後まで登場させてほしいです。

なつの結婚相手の候補はたくさんいるので、誰と結婚するかはネタバレを公開
されない限りわかりませんが、きっとなつは絵の才能があり、絵心を教えてくれる
天陽に憧れか恋心を抱くと思います。

やはり早くで亡くなってしまったり、奥山玲子さんが今回ヒロインの奥原すずの実在モデルと言われていてモデルも違うので結婚相手としては今一歩違うのではと考えています。

それでほかのキャストの実在モデルを調べていると何と天陽の兄の陽平が結婚相手の実在モデルの方と合致する点が多いので陽平の方が結婚相手の本命と考えてます。考察実在モデルの記事はこちら↓↓

なつぞら結婚相手ネタバレ山田陽平が本命!夫の実在モデル小田部羊一と似すぎ!

 

2人の結末がどうなるかはわかりませんが、楽しみに見守っていきたいと思います。


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