『エール』は2020年3月30日から放送開始のNHKの102作目の朝ドラです。
今回は野田洋次郎さんが演じる木枯正人の紹介です。
木枯正人のモデルは古賀政男さんと言われていて、詳しく調べた内容をまとめています。
エール木枯正人(野田洋二郎)のモデルとなった古賀政男さんのプロフィール
[生年月日・没年月日]
1904年11月18日~1978年7月25日(享年73歳)
[出身地]
福岡県三潴郡田口村(大川市)
[生涯]
父親が瀬戸物の行商をしていた父親の喜太郎と母親のセツの間に5男として生まれました。
しかし、7歳で父親が逝去したため仁川に住む長兄を頼りに朝鮮へ渡ります。
その後に京城に移りますが、そのころに従兄弟から大正琴をもらい受けました。
京城善隣商業学校の3年のときに仲のよかった兄からマンドリンを贈られます。
中学を卒業後に大阪の商店で働いたあとで1923年に明治大学の予科に入学しマンドリン倶楽部の創設に加わりました。
当時の明大マンドリン倶楽部ではこぞって大曲が演奏されていたこともあって、古賀政男も難曲の『幻想的狂想曲』を演奏したりしていました。
1928年に青根温泉付近の山中で自殺をはかるも友人に発見され一命をとりとめます。
名曲『影を慕いて』の詩はそのときに見た蔵王の夕暮を見て浮かんだと言われています。
1928年の秋に明治大学記念館講堂で開催された定期演奏会で後に古賀政男の才能を発掘することになる佐藤千夜子と出会います。
「音楽は和也」の理念もこの頃に生まれたと伝えられています。
1929年に大学を卒業した古賀政男は指導者となり音楽活動を続けます。
そして6月の明大マンドリン倶楽部の定期演奏会で『影を慕いて』を発表しました。
それから、佐藤千夜子の歌唱と組んで『文のかおり』や『影を慕いて』などをビクターで吹き込み始めたます。
1931年になって日本コロムビアと作曲家として契約しまたが、この時にまだ東京音楽学校に在籍していた藤山一郎と出会いました。
古賀が作曲し藤山が歌った『酒は涙か溜息か』、『丘を越えて』、『影を慕いて』などがヒットしたことが政男の才能を開花させ、以降も多くのヒット曲を生み出します。
そして、1933年の晩秋から翌年にかけの伊東での療養あけにコロムビアからテイチクに移籍しました。
そして、『緑の地平線』、『二人は若い』、『東京ラプソディ』、『あゝそれなのに』、『青い背広で』、『人生の並木路』などのヒット曲を発表しました。
外務省の音楽文化親善使節としての渡米から戻ってからは、『誰か故郷を想わざる』、『目ン無い千鳥』、『新妻鏡』、『なつかしの歌声』などをヒットさせます。
太平洋戦争後の1948年には『湯の町エレジー』がヒットし、その年に『古賀ギター歌謡協会』を設立しました。
1960年代に入ると美空ひばりの歌の作曲を手がけ始め、1964年の『柔』は190万枚の大ヒットとなったのでした。
しかも、1966年に出した『悲しい酒』も145万枚の大ヒットとなります。
作曲活動の傍らで日本作曲家協会を設立して、日本レコード大賞の創設にも尽力しました。
しかし、1978年の明治大学マンドリン倶楽部による第102回定期演奏会で指揮したのが公に見せた最後の姿となりました。
そして、その年の7月25日に自宅での急性心不全により帰らぬ人となってしまいました。
享年73歳でした。
<木枯正人(野田洋二郎)の役柄>
木枯正人は古山裕一と同時期に『コロンブスレコード』と専属契約を結んだ作曲家です。
ふたりとも廿日市から同じように不採用を突き付けられ連敗記録を伸ばし続けます。
木枯から曲が採用させなければ契約金を返却しなければならないと聞いた裕一は不安になって音に相談しますが、音は契約書にはそんな記載はないと不安を払拭してくれます。
ある日、裕一は木枯を家に招いて夕食をともにしますが、その時に彼が福岡から周囲の反対を押し切って上京してきたことを知り自分と似ていると共感しました。
しかし木枯の方が先に連敗に終止符を打ちレコード化を決めてしまい焦る裕一。
先にレコード化にこぎつけた木枯らしは、裕一に向かって大衆に受けるものを作るには大衆をすることが必要だと言って、カフェに連れていくのでした。
しかし、それが音にばれて大変なめに遭うことになってしまった裕一でした。
『コロンブスレコード』では木枯が順調に作曲家としての道を歩み始めていて、新しく作った曲を歌手の山藤太郎がレコーディングしていました。
そして、早稲田大学応援部から応援歌を頼まれていた裕一は山藤が慶応大学応援歌の歌唱指導をしていた事を聞いてプレッシャーを感じるのでした。
しかし、裕一は団長の熱い思いを聞いて応援歌『紺碧の空』を書きあげ、早慶戦にも勝利させることができます。
そんな裕一をお祝いだとカフェに誘う木枯。
重い足でカフェにいった裕一はそこで女給をしている鉄男が付き合っていた希穂子にあうのでした。
一方、音は『椿姫』のヴィオレッタの役作りに苦悩していました。
そして、木枯らしに頼んで1週間だけカフェで働かせてもらうことにした音。
『紺碧の空』の成功で廿日市から地方小唄『横浜囃子』の作曲を頼まれますが、出来上がった曲はあっさり没にされます。
肩を落とす裕一を次で頑張ろうと励ましてくれる木枯しでしたが、裕一は次があるのかを心配するのでした。
<感想>
古賀政男さんは日本の歌謡界に多大な貢献をした人物で、今でも事ある事に名前が出てきます。
その古賀政男さんがモデルになっていると言われる木枯正人を演じる野田洋二郎さんも作詞作曲を手掛けるミュージシャンです。
しかし、野田洋二郎さんが歌謡曲ではなくロックバンドと言う違いが役柄を面白くしてくれているのかも知れませんね!?
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