エール柴咲コウモデル双浦環(ふたうら三浦環ネタバレ志村けん山田耕作との関係

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『エール』は2020年3月30日から放送開始のNHKの102作目の朝ドラです。

 

今回は柴咲コウが演じたオペラ歌手の双浦環の紹介です。

 

双浦環のモデルは三浦環さんと言われています。

 

エール柴咲コウの双浦環(ふたうら)の実在モデル三浦環のプロフィール>

 

[生年月日・没年月日]

 

1884年22日~1946年5月28日

 

[出身]

 

東京都東京市京橋区(東京都中央区京橋)

 

柴咲コウの双浦環(ふたうら)の実在モデル[三浦環の生涯]

 

父親の柴田孟甫は静岡県城東郡下朝比奈村(御前崎市)出身の公証人。

 

母親の永田登波は静岡県城東郡小沢村(菊川氏)出身。

 

柴田環(本名)は幼い事より日本舞踊や長唄を習っていました。

 

やがて入学した東京女子館で東京音楽学校(東京芸術大学)卒業者の音楽教師の杉浦チカから音楽家になることを勧められます。

 

そして1900年に入学した東京音楽学校では滝廉太郎からピアノを、幸田延から声楽を習います

 

さらに、アウグスト・ユンケルからヴァイオリンまで学びます。

 

しかも、入学する前に陸軍三等軍医の藤井善一と結婚していましたが、1903年に泰楽堂で公演されたオペラに出演し成功をおさめます。

 

しかし、藤井とは僅か4年で離婚してしまいます。

 

東京音楽学校を卒業してからは、同学の研究科に入りながら授業補助の辞令を受けて山田耕筰らに音楽を教えます。

 

1911年には帝国劇場に所属しながらレコードを吹き込んだり、プリマドンナとして活躍したりしていました。

 

1913年に柴田家の養子だった医師の三浦政太郎と結婚し、翌年には夫とドイツに留学しましたが世界大戦の戦火を逃れてイギリスに渡ります。

 

三浦環はイギリスで成功を経て1915年に渡米しました。

 

ボストンでの好評を受け、『蝶々夫人』や『イリス』をニューヨークなどの大都市で演じます。

 

その後、ヨーロッパとアメリカを行き来し成功をおさめた三浦環は1922年に帰国しました。

 

帰国後は長崎に居を構えて『蝶々夫人』とゆかりのある土地を訪れて演奏会を開きます。

 

1924年に再度渡米した環はサン・カルロ・オペラ団に出演し、翌年にはシカゴで『浪子さん」』を初演」しました。

 

その後はイタリアで歌手として活躍しながら、『蝶々夫人』出演で遂に2000回を達成しました。

 

2000回達成を区切りとして日本に永住することを決心した三浦環。

 

1936年に東京歌舞伎座で記念すべき2001回目の『蝶々夫人』を披露します。

 

それ以降は、日本国内でのオペラ出演やリサイタルを重ねながられーコーディングもしていきました。

 

しかし、1944年になると太平洋戦争の激化で山梨県の山中湖畔に疎開します。

 

疎開先では母親の登波を看病しながら地元の人たちと交流し、近所の子供たちに歌を教えたりする生活をしていました。

 

戦争が終わった1945年には日比谷公会堂でシューベルトの『冬の旅』でリサイタルを開きますが、翌年になると体調を崩してしまします。

 

膀胱がんで大東学園病院に入院した三浦環は独りでは歩けない状態に陥っていました。

 

それでもリサイタルを続けますが転院した東京帝国大学病院で危篤に陥ったまま逝去したのでした。

 

<双浦環の役柄>

 

関内音は、気が強く物言いがはっきりしてて、学芸会での演目を「浦島太郎」から「竹取物語」に変えてしまうような子供でした。

 

そんな音は父親に連れていかれた教会で双浦環のオペラに魅了されて、終了後に自分が感動したことを伝えます。

 

そして環から自分のレコードをプレゼントされた音は自分も歌手になる事を夢見るようになります。

 

東京帝国音楽学校に進んだ音は記念公演の2次選考会に臨もうとしていました。

 

緊張しながらも選考会を通過した音でしたが、環から「どこまで曲を理解し、何を伝えたいの?」と厳しい助言をもらってしまいます。

 

数日後に行われた最終選考会で想いを込めながら歌う音を見つめながら満足そうにしている環。

 

そして音は見事に選ばれたのでした。

 

伝手を辿って裕一の『コロンブスレコード』専属契約をとりつけた音でしたが、裕一が作った『船頭可愛や』は売れずに困り果てます。

 

音が窮状を双浦環に相談すると、なんと環は自分が歌うと言い始めます。

 

レーベルの問題を何とか乗り越えて環が歌った『船頭可愛や』はたちまち大ヒットになります。

 

しかし、記念公演の練習中に自分が妊娠していることがわかり、再び双浦環に相談した音。

 

でも、環からの話は非常に厳しいもので音は落胆するのでした。

 

環はフランスでの舞台を目指していた頃に、恋人の今村嗣人から歌を止めることを頼まれていたのでした。

 

そして環が選んだ道は、恋人と別れて歌を続けることだったのでした。

 

その結果で世界的なオペラ歌手になっていたのです。

 

<感想>

 

双浦環のモデルは三浦環と一字違いの名前にしたのは演出家の意図があるのでしょうか?

 

自分の夢を貫いた三浦環さんの姿を双浦環はそのまま引き継いでいます。

 

実際に三浦環さんは山田耕筰さんや姉の恒子さんと接点があったようです。

 

耕筰さんの奥さんの辻輝子さんが声楽家だったようですが三浦環さんと関りがあったのかが気になりますね!?

 

 


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