『エール』は2020年3月30日から放送開始のNHKの102作目の朝ドラです。
今回は古山祐一の幼馴染で作詞家の村野鉄男のモデルとなった野村俊夫の生涯について紹介します。
エールモデル村野鉄男の役柄とは?作詞家に
福島の呉服屋『喜多一』の長男として生まれた古山祐一は幼い頃より心優しく緊張すると言葉がでなくなるような少年で、幼馴染の村野鉄男からかわかわれます。
村野鉄男は魚屋『魚治』の長男として生まれ、乃木大将と呼ばれるようなガキ大将でした。
ある日、祐一は鉄男が売った魚が腐っていたと客から突き飛ばされている場面を見かけます。
鉄男がその場に落としていった『古今和歌集』を家に届けようとした祐一でしたが、父親の善治から怒られた鉄男に八つ当たりしますが、後で詩集を届けてくれたことを知り、翌日になって祐一に謝る鉄男でした。
そこで祐一は鉄男が詩を作るのが好きだと云うことを知りますが、鉄男は詩では飯を食べて行けないと言います。
しばらくして、村野家は多くの借金を作り夜逃げするように引っ越していってしまいました。
時は流れて、銀行の同僚が17歳になった祐一をレストランでカフェの志津とつなげようとしますが失敗してしまいますが、偶然にそこで鉄男との再会を果たしたのでした。
それから、同じく幼馴染の佐藤久志と一緒になって作詞家として音楽の道を目指したことで後々3人は『福島三羽カラス』と呼ばれるようになっていきます。
エール村野鉄男のモデルと言われる野村俊夫の生涯とは?ガキ大将
ツイッターより↑
野村俊夫は1904年11月に福島市で誕生し本名は鈴木喜八でした。
生家は魚屋『魚忠』を営んでいて俊夫は鈴木忠八の3男で、幼少時はガキ大将として5歳年下の古関裕而らと遊んでいましたが、親が相場で失敗したため引越します。
福島市立第一小学校を卒業して福島商業学校へ進んだ俊夫でしたが、家庭の事情などで中退して福島県の富豪である角田林兵衛に奉公に出るも
、隠れて勉強をしていたことが知られてしまい2年間で実家に戻されてしまいます。
その後は3年間ほど家業を手伝いますが、その間も勉強を続けたのでした。
そして20歳のときに福島民友新聞社に就職します。
新聞社では社会部の記者をする傍らで文芸欄も担当していました。
1930年になると古関祐而が日本コロンビアとの専属契約を結び上京していきました。
その1年後、『福島ハーモニカソサエティ』が縁で古関祐而と再会した俊夫も上京します。
そして、野村俊夫が作詞し古関祐而が作曲した『福島行進曲』が生まれフリーの作詞家としての活動を開始したのでした。
そしてイギリスの作曲コンクールで2位になった古関祐而も福島民友新聞社での仕事を手掛けるようになります。
しかし、上京した野村俊夫ですが作曲の仕事はなく、先に東京に移っていた姉が始めたおでん屋を引き継ぎ『太平楽』を始めました。
しかしリベラル思想の持ち主であった俊夫は国家の意向には沿わない歌詞ばかりを書いたため、レコードの仕事ができなくなってしまいます。
その頃、野村俊夫には妻とふたりの娘がおり、困った俊夫は生活していくために自らの方針を変えます。
その結果、1939年に出された戦時小唄『ほんとにほんとにご苦労ね』がヒットすることになったのでした。
野村俊夫35歳の年でした。
同じ年に、藤山一郎の日本コロンビア復帰第1弾の『上海夜曲』を作詞しヒットさせた俊夫も同社と専属契約を結んだのでした。
その頃になって、ようやく生活も安定してきた俊夫は、翌1940年に古関が作曲し俊夫が作詞した曲を伊藤久男が歌った『暁に祈る』が大ヒットします。
この3人は『福島三羽カラス』と呼ばれ、戦時中も多くの曲を手掛けたのでした。
終戦後の1947年にジャスラックの理事に就任した野村俊夫は音楽家の権利確保に注力しながら多くの歌を作ります。
同年、俊夫は作曲家の古賀政男と組み『湯の町エレジー』をヒットさせてからは、同コンビで多くの曲を手がけました。
しかし、1966年に受けた十二指腸潰瘍の手術の後遺症で腸閉塞を発症していまい享年63歳の若さで他界してしまいます。
生前は島倉千代子や美空ひばりにも歌を提供した野村俊夫は、生涯で3000曲を作詞したのでした。
その内には100曲もの校歌も含まれており、いまだに多くが歌い続けられているのです。
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