どうする家康のネタバレあらすじ44話になります。NHK大河ドラマ2023年11月19日放送予定。
「関ヶ原の戦い」と題し第44回をお送りします。
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どうする家康ネタバレ44話あらすじ徳川秀忠幕府誕生
どうする家康ネタバレ44話:石田三成を処刑
秀忠の本軍到着を待たずに三成が籠城する大垣城に近くまで兵を進めた家康。
家康は豊臣秀頼らが到着するまえに戦いを決するべく大垣城に背を向けて西へと進みます。
すると三成はすぐさま大垣城をでて、家康を関が原で迎え撃つべく先回りして東軍を包囲してしまったのです。
やがて戦いが始まると東軍を包囲した西軍の優勢となりますが、家康自らが本軍を率いて出陣したことで、松尾山から戦況をみていた小早川が動きます。
山を駆け下りた小早川の大群が攻め入ったのは、西軍の大谷吉継の陣だったのです。
これにより東軍に寝返るものもあらわれ戦況は一気に東軍側に傾き、関ヶ原の戦いは家康の勝利となったのでした。
戦いが終わると西軍に味方した大名には処罰が下され、再建するために逃げていた三成は近江で捉えられてしまします。
石田三成が六条河原にて処刑されたあと、勢いに乗った家康は佐和山城を始めとする西軍の拠点を次々に制圧していきました。
そして戦勝報告をするために大阪城に豊臣秀頼を訪ねていった家康。
秀忠とともにやってきた家康を出迎えた茶々は、しらじらしく逆族を撃ってくれたと労います。
秀頼も大儀だったと家康に声をかけたものの、まだ7歳の当主だったのでした。
そのため場を仕切るのは母親の茶々で、秀頼に家康と盃を交わさせて諭すように言います。
家康は秀頼の新しい父親だと心得ろと命じたのです。
すると秀頼も素直に家康のことを”父上”と呼んだのでした。
さらに茶々は豊臣家を守るための策を講じようとして、秀頼に秀忠の娘で4歳の千姫を嫁がせることを持ち出してきます。
そしてしらじらしく、両家が手を取り合うことが何より大切だからというのでした。
茶々の想いが言葉と裏腹にあることは、家康が退出するときの刃のようにするどい視線で明らかだったのです。
秀頼との面談を終えた秀忠は秀頼と千姫の婚姻を素直に喜びますが、家康は難しそうな顔をしていました。
家康は茶々が何を考えているのかがわかっていたのです。
茶々がはやく人質をよこせと言ってきたのだと読んだ家康は、それによって豊臣と徳川のバランスを保とうとしていると推測しますが、それでも秀頼が成長する10年間程度だけだと考えたのでした。
そのあとも衝突がおきないようにするためにどうするべきかと悩む家康。
すると家康の悩みを察した本多正信が思いがけないことを進言してきたのです。
それは家康が将軍になるというものでした。
正信はそのときは廃れてしまっていた将軍職であったものの、幕府を開けば徳川ができることが大いに増えると言います。
それを聞いてうなづいた家康。
武家の棟梁である徳川家は公家の位置づけの豊臣家とうまく棲み分けができるかも知れないと思ったのです。
こうして正信が考え出した知恵のおけげで、家康もにも新たな道が見えてきたのでした。
どうする家康ネタバレ44話:家康の母於大の死
しばらくして家康は母親である於大を上洛させます。
そして家康のもとで穏やかな日々をすごしながら、”天子様”にまでお目通りできることを夢のようだと言う於大。
すでに仏門に入って伝通院(でんづういん)と号していて、もう思い残すことは何もないとまで口にしていたのです。
それでも家康は74歳になっていた母親に向かって、薬湯をつくってやりながら長生きするよういたわったのでした。
すると於大は”もう捨てるでないぞ、そなたの大事なものを大切にしなされ、ひとりぼっちにならぬようにな”と返します。
そんな於大もそれから3か月後に、家康が看取るなか伏見城で息を引き取ったのでした。
どうする家康ネタバレ44話:徳川幕府の幕開け
それから月日は流れて1603年の2月となります。
家康は本多正信の妙案にもとづき征夷大将軍の宣下を朝廷より受けて、徳川幕府の幕開けをしました。
家康の目指すものは戦のない太平の世をつくりあげることで、次々に策をすすめていきます。
その一方で、茶々から申し出のあった秀頼と千姫の婚姻についても進めようとしていたのです。
それは徳川の足元を盤石にするためでもありましたが、輿入れする日が近づくにつれ千姫は豊臣家に嫁ぎたくないと泣きながら家康に訴えてきたのでした。
それは自分の母親で茶々の妹である江から、姉は何を考えているのかわからないから怖いと常々聞かされていたからだったのです。
そえれでも”おじじ様”の傍にいたいと訴える、可愛くて仕方ない孫娘に向かって、心を鬼にした家康は”徳川の姫としての心構え”を説きます。
そして、何かあったらすぐに自分が駆けつけると約束したのでした。
何度も何度も念押しして自分の前から去っていく千姫の姿を見ていた家康は思わず泣きそうになってしまいます。
そんな家康は、涙もろくなったり身体があちこち痛くなったりと年は取りたくないと傍らにいた阿茶に愚痴るように呟いたのでした。
年をとってきていたのは家康だけではありません。
同じように平八郎や小平太も老いを感じ始めていて、その2人よりはるかに若かった井伊直政は関ケ原の戦いでの傷がもとで1年前に他界してしまっていたのです。
次の年があけた正月になると家康は平八郎と本多正信の子供である正純をひきつれて、秀忠が治めている江戸城に姿をあらわします。
ところが、家康たちを出迎えた秀忠は、ちゃんとやっているかと問われます。
そころが家康の問いには応えずに、娘の千姫が大丈夫かと訊いてきた秀忠は、”関が原での遅れ”から何も成長していないと苦言を呈されてしまったのです。
家康は、”真っ先に聞くことが娘の心配か”とみんなの前で咎めたのでした。
関が原の戦いで全軍を率いては間に合わないと、従者だけ引き連れてきていたのです。
こっぴどく叱られた秀忠が”正信も康政の同意”を口にすると今度は人のせいにするなとさらに輪をかけて叱りつけた家康。
その日の夕方になると、(こへいた)が家康のもとにやってきました。
“生涯最後の諫言”と前置きした小平太は、昼間に家康が大勢の前で秀忠を叱りつけたことに苦言を呈しにきたのです。
関が原で間に合わなかったのは秀忠のせいではないのに、あんな叱り方は理不尽だという小平太は、家康が今の秀忠と同じ年頃のときはどれだけ頼りなかったかと詰め寄ったのでした。
その日の夕方、小平太が「生涯最後の諫言」と家康に抗議しに来ました。
すると家康がおもむろに言葉を返します。
父がいなかった自分には左衛門督や石川数正や鳥居忠吉翁たちが、厳しく叱りつけてくれた。
でも秀忠を厳しく叱れるのは自分しかいないからだと理由を説明した家康。
そして、秀忠が経験を積んで成長するのを悠長に待っていることはできないと告げたのでした。
家康がそう考えていたのは、関が原は豊臣家中の仲違いの戦だったと考えていたからだったからです。
豊臣がふたたびひとつになって秀頼のもとに集まっていると話す家康は、秀頼が成長したときのことについて考えを巡らせていいました。
そのときに豊臣に天下を返してやるかどうかを考えると、家康のなかで”関ヶ原”は終わっておらず、老いていることなど出来ないというのです。
そして、平八郎にはまだ隠居など認めぬと告げた家康は、小平太に向かってまだ老いるなと命じたのでした。
戦乱の世の中には戻さないと心に強く決めていた家康は、自分が築いた太平の世の礎を守り治めていけるのは秀忠のような人間だと思っていたのです。
そして、人の上に立つものは、すべて結果において自分が責任を負わなければならないというのでした。
次の日になって家康はあらためて秀忠を諭します。
さらに1年以内に自らの征夷大将軍の職を秀忠に譲るつもりであることを伝えたのです。
翌年4月になると、徳川秀忠は家康から職を引継ぎ第二代将軍に就任しました。
それは今の天下は豊臣に返すことなく、徳川家が受け継いでいくという宣言に他ならなかったでのした。
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