スカーレット モデル喜美子 神山清子の波乱万丈生涯

スカーレット

NHK連続テレビ小説101作目は、信楽を舞台にした女性陶芸家川原喜美子の半生を描いたドラマ『スカーレット』です。

 

このドラマ令和元年9月30日(月)から放送開始されました。

 

今回は、物語の中心人物である女性陶芸家川原喜美子のモデルの神山清子さんの生き様について紹介します。


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[スカーレットモデル神山清子の生い立ち]

神山清子は、昭和11年8月2日に長崎県佐世保市で生まれました。

 

旧姓は金場で神山は夫の姓です。

 

父親の金場繁は香川県の出身で酒と博打が好きだったと言います。

 

母親のトミはお嬢様育ちだったこともあり、家の事はほとんど清子が仕切っていました。

 

その後、繁が炭鉱の厳しい労働に耐えられなくなった朝鮮人の脱走を手伝ったため、金場家は炭鉱町を追われてしまいます。

 

金場家は、行く先々で朝鮮人に匿われながら逃走を続け、昭和19年9月に滋賀県の日野にやってきました。

 

しかし、滋賀についた清子はトミがつくる服が朝鮮服に似ていた事で虐めにあいます。

 

でも、母親に虐めの原因について訊かれても何も話さなかったのでした。

 

しかも、清子は”朝鮮人”と虐められると、相手の親に文句を言いに行ったり、校長室に駆け込んで訴えたりしていました。

 

やがて、清子が小学3年生の時に戦争が終わります。

 

そして、金場家は昭和22年2月に滋賀県信楽町に移ったのでした。

 

戦争で金属が不足していたこともあり、一部で陶器がその代用品として重宝されます。

 

その結果、信楽では火鉢が飛ぶように売れて、”火鉢景気”に沸いていました。

 

繁は亜炭の採掘で一旗挙げようとして、有り金をはたいて山を購入しますが、上手く行きませんでした。

 

仕方なしに、山の木を切って薪にして陶芸家に売る事で生計を支え始めます。

 

[清子が進んだ道]

 

清子は、佐世保にいる頃から周囲から虐められていたこともあり、ひとりで地面に絵を描くことで孤独を紛らわしていました。

 

そのせいもあって、清子は絵を描くことが好きになっていて、密かに将来は絵描きになりたいと思うようになっていたのです。

 

その一方で、婦人警官にも憧れていた清子は、派出所のおまわりさんから柔道を習ったりしていて、とても丈夫な身体をしていました。

 

清子は自分への虐めをやめさせるために、周囲から認めてもらえる様に勉強を頑張ります。

 

その結果、成績は常にトップで先生からの信頼も厚く、毎年のように学級長に選出されていたのです。

 

清子は中学1年生の秋に稲穂をスケッチした絵を描きます。

 

その絵が気に入った美術教師は定期的に清子に絵を教えるようになります。

 

やがて、滋賀県の絵画コンクールで金賞を受賞した清子は、美術教師から美術大学への進学を勧められたのでした。

 

しかし、父親の繁は封建的な考えの持ち主で、「女は裁縫と料理が出来ないとダメだ。勉強など必要ない」と清子が中学を卒業したあとに和裁・洋裁の学校に行くことを強いたのでした。

 

せっかく美術教師が切り開いてくれた道でしたが、ひとまずは繁に言う事に従うことにした清子は和裁・洋裁の学校に入ります。

 

しかし、清子は内心では絵の勉強がしたくて仕方がありませんでした。

 

[どうしても絵が描きたかった清子]

 

家庭の経済事情から京都で絵の勉強をすることを諦めていた清子。

 

でも、その頃の信楽では焼き物の絵付けと云う仕事がありました。

 

清子は良い絵付け師を探しはじめます。

 

そして、京都から来た日本画家の絵付け師の吉竹栄二郎を見つけて弟子入りを嘆願したのです。

 

しかし、吉竹は女の弟子はとらないと清子の弟子入りを断ります。

 

吉竹によると、自のでした。

 

でも、清子の熱意は吉竹に伝わり北村という絵付け師を紹介してくれます。

 

こうして、北村の弟子になれた清子でしたが、雑用ばかりでなかなか絵付けを教えてくれません。

 

それでも、雑用の合間での見まねで絵付けの仕事を覚えていった清子は、やがて、下書きから上絵まで任されるようになるのでした。

 

しかし、北村は怒ると投げると云う悪癖があったこともあって清子は1年で辞めてしまうのでした。

 

[吉竹から就職先を紹介される]

 

昭和29年、北村の弟子を辞めた清子は18歳の時に吉竹から『近江化学陶器』と云う陶器製造会社を紹介されます。

 

清子は『近江化学陶器』で絵付けをしていた吉竹から絵付けを学ぶことになります。

 

そして、クラフトデザインも学ぶのでした。

 

清子は弟子ではなく正社員なので給料はもらえたましたが微々たるものでした。

 

それでも、清子は早朝から職場に行って不良品の火鉢で絵付けの練習を続けます。

 

仕事が終って家に戻ってからも新聞紙で筆運の練習を繰り返したのでした。

 

[清子の結婚]

 

清子が『近江化学陶器』に入って1年が過ぎたころ、清子は主任の様な立場になりました。

 

所属していたデザイン部門も大きくなり給料も人並みになります。

 

そんなとき、他の部署から神山易久がデザイン部へ異動してきます。

 

神山易久は、中学時代の1年先輩でしたが、中学時代の美術コンクールでは常に喜美子が上位になっていた間柄だったのです。

 

そんな神山易久が清子のデザイン画を褒めたことで、ふたりの距離は急速に近づいていきました。

 

しかし、繁は易久との結婚に反対します。

 

繁は、清子に養子をとることを考えていたことと、神山家の金銭的な事情にも不満があったのでした。

 

結局、ふたりは金場家で同居はするものの清子が神山の籍に入る事で落ち着きます。

 

神山清子が21歳のできことでした。

 

やがて、易久と清子の間には、長女の久美子と長男の賢一が生まれますが、経済的に厳しかったため喜美子は子供連れで『近江化学陶器』での仕事を続けたのでした。

 

[喜美子が陶芸に目覚める]

 

神山清子が『近江化学陶器』で働き始めて10年も経った頃には電気やガスの普及で、火鉢の需要が急激に冷え込んでいきます。

 

その為、火鉢生産に頼っていた『近江化学陶器』の経営は苦しくなってきており、主力製品を火鉢からタイルや植木鉢に移していました。

 

絵付け火鉢の仕事も少なくなってきたので、清子は『近江化学陶器』を辞める決断をします。

 

そして、信楽焼の伝統的な狸や灯籠の型押しの下請けを始めますが思うように稼ぐことができずに、他の仕事を探し始めていた清子でした。

 

そんな状況で台所仕事をしていた神山清子は、その頃の信楽焼には食器は無かったこともあって、信楽の土で食器を焼く事を思いつきます。

 

そこで、試しに知り合いの皿を窯で焼かせてもらう清子。

 

その後、神山清子は皿作りの研究を重ねますが、子供たちの泥遊びから『編み込み』と云う手法を考え付きます。

 

それを見た知り合いから清子は公募展に出品することを勧められたのです。

 

さっそく、出品してみた清子は、何と日本クラフト展や朝日陶芸展に入選ことが出来たのでした。

 

そうして、神山清子は信楽の女流陶芸家として一気に注目を集めることになります。

 

[女流陶芸家の道]

 

その頃の清子は自分の窯を持っておらず、知り合いの気釜で焼かせてもらっていました。

 

コンクールの審査員に窯が見たいと言われた清子は、慌てて小さな電気釜を30万円で購入することにしたのでした。

 

支払いは出品した作品を売ったお金を当てにしていましたが、思うようにはいかず値下げして売った金額ではたりない分を月賦にします。

 

そのころの世間では女流陶芸家としてもてはやされた清子ですが、陶芸界は男の世界であったこともあり批判的な人も少なくありませんでした。

 

[神山易久も『近江化学陶器』を辞める]

 

易久は清子が辞めたあとも8年間も『近江化学陶器』に残っていましたが、競合会社の『日本陶飾』に引き抜かれます。

 

易久の『日本陶飾』への転職は自分のデザインを持っていっており後味の悪いものとなっていました。

 

しかも、『日本陶飾』に移った易久は自由気ままに重役出勤を繰り返していたため、社内での人間関係が上手くいかず4年で辞めることになったのでした。

 

会社を辞めた易久は、堅実に仕事を増やしていた清子の工房で食器を作る事にします。

 

[いにしえの寸越窯]

 

食器作りに追われながらも、古代穴窯で信楽焼を作りたいと思うようになる清子ですが、窯を作る資金の目途がたちません。

 

そんな時に、繁の山を買い上げてくれる人があらわれます。

 

繁は山を売って出来た金を清子たちに資金として提供してくれたのでした。

 

そのお金をつかって、易久と清子はレンガを重ねて土を被せた半地上式の穴窯を作り上げした。

 

そうして出来上がった窯を『寸越窯』と名付けたのです。

 

[『寸越窯』が幸運を運んできた]

 

『寸越窯』の噂を聞きつけて自分の作品を古式穴窯で焼いて欲しいとふたりを訪ねてきた陶芸家が京都に信楽焼の好きな美術商がいると紹介してくれます。

 

その美術商を訪ねてふたりは易久の作品をみて貰う事にします。

 

すると、その美術商は易久の作品を気に入ってくれ、作品を売る事を請け負ってくれたばかりか、無条件で大金を貸してくれたのです。

 

それからと云うものふたりは夫婦で個展を開いたりして作陶に打ち込んでいきました。

 

[易久と清子が離婚する]

 

京都の美術商の支援が受けられるようになった頃から、易久は女性の弟子と不倫関係になっていました。


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それに気付いた清子は女弟子に恋愛を選ぶか陶芸を選ぶかの選択を迫ります。

 

それを女弟子が易久に言いつけたことで夫婦関係はますます崩れていきました。

 

その一方で、夫婦揃っての展覧会への出品で清子ばかりが入選する状態が続き、易久の清子への妬みが積み重なっていったのでした。

 

そうしている内に易久は清子の作陶を妨げるようになります。

 

そんな時に、易久が交通事故に巻き込まれて弟子との不倫が明るみにでてしまいました。

 

その結果、易久の不倫は信楽中の人が知る事となってしまします。

 

清子は易久の不倫で2年間も苦しみ自殺まで考えましたが、それを救ってくれたのが息子の賢一だったのでした。

 

賢一は清子に易久のことは忘れて良い仕事をして欲しいと言ったのでした。

 

それを聞いた清子は易久との離婚を決意したのです。

 

神山清子が38歳のことでした。

 

[かみやませいし先生は男だと勘違いする]

 

清子は離婚後も神山姓を名乗り続けました。

 

清子には陶芸の師匠がいませんでしたが、離婚後は多くの陶芸家が訪ねてきてくれます。

 

純粋に助言をしてくれる人もいれば、言い寄ってくる人もいました。

 

中には、神山清子は「かみやませいし」と云う男の陶芸家だと勘違いして訪ねてくる人もいて、応対に出た清子は女弟子だと勘違いされたりしたのでした。

 

何回も訪ねてきても「かみやませいし」先生が会ってくれないと怒り出したその人に、清子は「こうやまきよこ」と読み、自分だと明かして驚かれて絶句されたのでした。

 

[信楽自然釉との出会い]

 

清子が易久と離婚してしばらくした頃、賢一が古い寸越窯跡で偶然に古い陶器の破片を見つけます。

 

その欠片はなんとも綺麗な色をしている釉薬を使わない古代の自然釉が美しいものでした。

 

それを見た清子は、自然釉に魅入られてしまい、その研究に没頭しはじめるのでした。

 

しかし、離婚したばかりの清子には研究するお金の余裕はありません。

 

それでも、弟子から借金をしたり子供のお年玉を使い込んだりしながら、パンの耳を食べ農家にキャベツをもらいに行くなど生活を切り詰めて研究を続けたのです。

 

しかし、何度やってみても失敗ばかりで、まったく色が出ません。

 

度重なる失敗でいよいよ資金が底をつくと云う時に、清子はしばらくの休業を覚悟で全財産をつぎ込んで薪を買い込みます。

 

そして、普通は3日から6日程度の焼き上げ日数を半ばやけくそで16日間も焼き続けたのでした。

 

すると、16日間も炊き続けたことで、溶け出した土の中の石と焼き物にかかった灰が反応して宝石のような綺麗な色に変化していました。

 

こうして、清子は偶然とも言える状況で自然釉による古代の信楽焼きの再現に成功したのです。

 

神山清子は、これを『信楽自然釉』と名付けたのです。

 

そうして、古代の信楽焼きを再現したとテレビなどで放映されたことで、神山清子の名前は全国へ知れわたる事になったのです。

 

[神山清子の韓国への想い]

 

韓国の窯場から陶芸の指導して欲しいと清子は依頼を受けます・

 

当時、44歳になっていた清子自身も韓国の土や職人の仕事を見たいと韓国の陶芸に興味を持っていました。

 

また、戦時中に繁と警察から逃げていたときに、多くの朝鮮人に匿われたこともあって恩返しの念もあって陶芸の指導を受けたのでした。

 

清子は、半月の短い期間ではあったものの韓国に滞在して窯場で陶芸を教えました。

 

帰国後も、そこで出来た韓国人との交流を続けようとしましたが、朴大統領暗殺事件などの政情不安で連絡が途絶えてしまうのでした。

 

[賢一が白血病を発症してしまう]

 

息子の神山賢一は、幼い頃より清子たちの信楽焼を手伝ってきたので、誰に言われるでもなく自然に自身も信楽焼を目指すようになっていました。

 

賢一は、信楽工業高校の窯業科を経て滋賀県立信楽窯業試験場でロクロや釉薬などを覚えていきます。

 

滋賀県立信楽窯業試験場での3年の修行の後、賢一は神山清子の元に戻ってきました。

 

しかし、賢一は清子とは異なる天目茶碗制作の道で陶芸家としての道を歩み始めます。

 

平成2年には、神山賢一は29歳の誕生日を迎えますが、その4日後に作陶作業の最中に突然倒れて病院に運び込まれました。

 

病院で検査を受けた賢一は、慢性骨髄性白血病と診断されてしまったのです。

 

2日後、賢一は大津市の赤十字病院に転院しますが、清子はそこの医師から白血病が血液のガンだと教えられて愕然としました。

 

神山清子が54歳のことでした。

 

医者の診断は清子にとって残酷なもので、治療方法は赤血球の形(HLA)が合ったドナーから骨髄を移植のみで、ドナーが見つからなければ2年半の余命だと宣告されたのでした。

 

[神山賢一君を救う会の発足]

 

比較的適合率が高いと言われる兄弟間でのHLAの適合ですが、賢一と久美子のHLAは適合しませんでした。

 

この頃は、まだ公的な骨髄バンクなどは存在しておらず、民間が運営する『東海骨髄バンク』があるのみだった為、登録されているドナー数も少なく、HLAが適合するドナーを見つけるのには時間もかかるの状況だったのです。

 

すると、神山賢一の知人らが平成2年7月に『神山賢一君を救う会』発足させて、HLAが適合するドナー探しと募金活動を始めたのでした。

 

そして彼らの運動は市民団体などの協力も集めて『神山賢一君支援団体連絡協議会』を発足させたのです。

 

山賢一の名前が知れ渡った結果、全国の白血病患者からHALのデータが送られてきて、自分達も助けて欲しいとか、募金を独り占めしないで欲しい等との意見や依頼が届けられるようになります。

 

神山賢一は他の白血病患者も救うことを決心して、活動の枠を広げて『骨髄バンク』設立運動を開始したのでした。

 

清子と賢一は信楽焼の親子展を開きながら、骨髄バンクの必要性を訴えドナー提供を呼びかけ続けました。

 

その結果、4ケ月で約3000人のドナー希望者を集める事ができたのでした。

 

しかし、非血縁者でHLAが適合する可能性は絶望的に低く、賢一の適合者はみつかりませんでした。

 

しかも、血液検査に1万円以上の費用がかかり、当時は国の費用負担もなかったので、『神山賢一君を救う会』は大きな借金を抱えて解散に追い込まれてしまいます。

 

清子は、全国の白血病患者にも借金返済に協力して欲しかったが、個人的に借金を被り作品を作りながら返済を続けました。

 

その一方で、賢一は『骨髄バンクと患者を結ぶ会』を設立して骨髄バンク設立運動を本格的に開始したのでした。

 

[賢一の容態が急性白血病に転化してしまう]

 

賢一は骨髄バンク設立運動を続ける傍らで陶芸にも励んでいました。

 

そして、『滋賀県立陶芸の森』で開催された『世界陶芸祭』に、清子が壺を出展し賢一は天目茶碗を出展したのでした。

 

しかし、開催期間中に信楽高原鉄道の脱線事故が起こってしまい『世界陶芸祭』は途中で中止されてしまったのでした。

 

しばらくして、賢一の容態は慢性骨髄性白血病から急性白血病に転化してしまいます。

 

赤十字病院に再入院した賢一は、HLAの適合者が見つからないまま、叔母の静子の骨髄を移植することになります。

 

静子は清子の妹で、HLAは完全一致していませんでしたが、稀に完全一致していなくても快方に向かうこともあったので、少ない可能性にかけたのでした。

 

そして、名古屋の赤十字病院での移植手術後に賢一の容態は快方に向かったのです。

 

その頃になって、神山清子は牛尼瑞香と云う女性の弟子をとります。

 

賢一は、瑞香に助けられながら作陶と病院通いを続ける一方、髄バンクの必要性を訴える活動も続けたのでした。

 

[若すぎる神山賢一の死]

 

そんな状況下でしたが、1991年12月に骨髄バンク運動が実を結び、念願の『骨髄移植推進財団(骨髄バンク)』が設立されたのでした。

 

しかし、年が明けた2月に賢一の白血病が再発してしまったのです。

 

神山清子は献体登録すると言いだし、賢一にも献体登録を勧めたのでした。

 

清子の考えは、医学への貢献もありましたが、献体することで遺体は2年間そのままの状態で安置されるため、病院にいけばいつでも会えると云う理由が大きかったのです。

 

清子は賢一の生き様を信楽自然釉で残そうと、入院前に賢一が作陶した壺を楽自然釉で焼きあげます。

 

出来上がった自然釉の壺を賢一に見せますが、既にそれを持ち力もなくなっていた賢一でした。

 

ある日、賢一は徳川美術館に展示されている国宝級の『天目茶碗』が見たいと言いだします。

 

しかし、清子が賢一を車椅子に乗せて徳川美術館までいくと休館日で、賢一の望みは叶いませんでした。

 

病院に戻ってからの賢一は日ごとに衰弱していきました。

 

そして、1992年4月21日にとうとう帰らぬ人となってしまったのです。

 

神山賢一31歳、清子が56歳のときでした。

 

その後も、神山清子は白血病患者の支援を続けます。

 

そして、1994年に『滋賀骨髄献血の和を広げる会』が発足すると、会長に就任したのでした。

 

こうして、神山清子は陶芸の制作活動を行いながら、白血病患者のための活動を続けたのでした。


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