2019年1月6日より放送開始予定の『いだてん』
は1992年のストックホルムオリンピックに日本人として初めて三島弥彦と共に参加した金栗四三と日本での東京オリンピック開催に奮闘した田畑政治のW主役のNHK大河ドラマです。
今回はこのMHK大河ドラマで取り上げられた金栗四三と云う人物の実態像に迫ってみたいと思います。
<誕生から幼少期>
引用元 http://www.town.nagomi.lg.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=1837&sub_id=1&flid=8065
金栗四三は1891年(明治24年)8月20日に熊本県玉名郡春富村(現:和水町)で生まれました。兄妹姉妹は多く男4人と女4人の7番目でした。
四三は父親からの遺伝か幼児期は虚弱体質で家族は夜泣きに悩まされたとも言われています。しかしながら5歳を迎えるころには健康になり近所の田畑を駆けまわっていました。
その頃の気質は元気いっぱいで気のいい反面で負けん気が強かったようです。小学校時代は元々虚弱体質で運動に自信がなかったためか片道6キロの通学路を毎日走り続けたようです。
<東京高等師範学校時代>
引用元 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/87/Toyo_Bunrika_University-old1.jpg/1200px-Toyo_Bunrika_University-old1.jpg
小学校を卒業した金栗は難関とされていた旧制玉名中学へ進学することになります。当時の金栗は成績優秀な真面目な努力家で特待生になるほどでした。
でも意外なことにスポーツ万能ではなく剣道や体操は苦手としていました。中学卒業後に金栗は海軍兵学校を目指しますが結膜炎で不合格になります。失意の後に金栗が目指したのは大陸留学生の資格でした。
金栗は模擬試験のつもりで受験して合格した東京高等師範学校でしたが兄の諭しもあり1910年入学することにします。この東京高等師範学校で金栗のアスリートとして開花します。
同校の春と秋の長距離走大会で目覚ましい成績をおさめたのです。この頃の東京高等師範学校はスポーツにも力を入れており1920年の第1回箱根駅伝では優勝しているほどです。
長距離走大会で活躍した金栗は当時の校長であった嘉納は褒め称えられます。予科を終えて進んだ本科で金栗は何らかの部活に所属しなければなりませんでした。
予科の時に長距離走大会で成績を残していたことと金がかからないことで金栗は徒歩部への入部を決めたのでした。金栗は人一倍練習に励み本科に入って1年後の春の長距離走大会で見事に優勝します。
<ストックホルム五輪>
引用元 https://www.city.tamana.lg.jp/pub/29940_filelib_5d8d8f56dc68de892f0050ed92bde47e.JPG
金栗は1911年10月の新聞記事でストックホルム五輪予選会の記事を見かけこれに参加することを決めます。選んだ種目は25マイルマラソンでした。
25マイルは約10里(約40キロ)で金栗にとって6里以上は未経験の距離なのに予選会まで残す事20日しかないタイミングでした。
そして予選会は小雨交じりのなかで開催され金栗は見事に当時の世界新記録で優勝するのでした。
そして1912年早春に金栗は嘉納より短距離の三島弥彦君と共に自費遠征での」ストックホルム五輪代表として選手されたことを告げられました。
当時空路はなくウラジオストクまで船で渡りシベリア鉄道でスウェーデンまでの過酷な移動のたびでした。
大会中は短距離の三島は400mこそ準決勝に進みましたが100mも200mも1次予選敗退でした。一方金栗は26キロ地点で体調が急変し近所の農家に倒れこむと云う惨敗振りでした。
このレースは非常に過酷だったようで翌日に死者もでています。金栗は長旅の疲れや極度の緊張からの体調不良だったと推測されます。
<ストックホルムの雪辱>
引用元 https://lets.kumanichi.com/sousei/wp-content/uploads/2018/09/%E8%A8%98%E4%BA%8B04%E7%94%A8%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg
帰国後の金栗はストックホルムでの雪辱をはかるべき敗因分析を行い練習に励みました。しかし第一次世界大戦でオリンピックベルリン大会が中止されます。
悩んだ結果で金栗は嘉納の勧めもあり教師として自身の鍛錬と後進の育成の道を選び神奈川師範学校を経て独逸協会中学へ赴任します。
1916年(大正5年)に金栗は他の2名の陸上選手によって1920年に第1回が開催された箱根駅伝を発案しすることになります。
同じ1920年に開催されたベルギーでアントワープ五輪のマラソン代表として参加した金栗は30キロ地点でまたしても無念のリタイヤとなってしましました。
1923年に嘉納から勧められた東京女子師範に移ります。そこで金栗は日本での女性のスポーツとすてテニスを広めることになります。
1924年(大正13年)に金栗は3度目のオリンピックであるパリ大会に挑戦します。しかしながらパリ大会も途中リタイヤの残念な結果でした。
1930年に東京女子師範を去り郷里熊本で子供たちにスポーツの楽しさを教え乍ら悠々とした日々をおくることになります。1967年(昭和42年)に金栗はストックホルム五輪の記念行事に招待されます。
金栗がストックホルム大会で途中棄権の意思表示がされていなかったので開催者側のはからいでゴールテープを切らしてくれたのです。そして公式に発表された記録は”54年と8ヶ月6日5時間32分20秒”
四三金栗の波乱万丈な人生は1983年(昭和58年)に終わりを告げました。92才で大往生をでした。
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